- なぜルネサンス期に女性画家が現れたのか?
- ルネサンス期の女性画家リスト
- レヴィーナ・テイルリンク(Levina Teerlinc、1510s〜1576)
- プラウティッラ・ネッリ(Sister Plautilla Nelli、1524〜1588)
- カタリナ・ファン・ヘメッセン(Catharina van Hemessen 1528〜1565)
- ソフォニスバ・アングイッソラ (Sofonisba Anguissola 、1532〜1625)
- ルチア・アングイッソラ(Lucia Anguissola、1536〜1565)
- ラヴィニア・フォンターナ(Lavinia Fontana、1552〜1614)
- バルバラ・ロンギー(Barbara Longhi、1552〜1638)
- マリエッタ・ロブスティ(Marietta Robusti、1560?〜1590)
- フェデ・ガリツィア(Fede Galizia、c. 1578– c.1630)
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ルネサンスは女性画家が現れ始めた時期でもあります。本項ではルネサンス期の女性画家についてまとめました。
なぜルネサンス期に女性画家が現れたのか?
突然ですが、みなさんは世界で初めて絵を描いた人物を知っていますか?
古代ローマの博物学者である大プルニウスによると、Debutades(Butades)というコリント人の女性が、戦争に赴く恋人の影をなぞって壁に線を引いたことが絵画の始まりだそうです(下図)。つまり、世界で最初に絵を描いたのは女性だったのです。
まあ、大プルニウスの話は物語ですが、古代ギリシアやローマの頃から絵画の分野では女性たちが活躍していました。
その後、中世になると、女性は装飾写本やタペストリー(織物)といった分野で活躍するようになります。特に装飾写本は、初期には修道院で制作されており、女性(女性修道士)が参入しやすい分野でした。
ルネサンス期になると、そのような装飾写本作家から、ボローニャの聖カタリナ(Saint Catherine of Bologna、1413〜1463)のような初期の女性芸術家が現れます。
ボローニャのカタリナは、フェッラーラの王族の家系で大変裕福でした。11歳でフェッラーラのデステ家に仕え、その後、修道女として一生を過ごしています。彼女は芸術全般に優れた才能を発揮し、絵画の分野でも名を馳せました。そのため、画家の守護聖人とされています(下図はカタリナの作品)。
さらに、ルネサンスが進むと古代ギリシアやローマのヒューマニズムが復活し、一般の女性にも画家の道が開けました。とはいっても、画家になるためには、幼少期から数年に渡って年上の画家と寝食を共にし、さらに、死体を解剖したり、ヌードを描いたりと嫁入り前の女子にはハードルの高いことばかりでした。当時は女性が同性のヌードを見たり描いたりすることすら禁じられていたのです。
このような参入障壁があったために女性の画家がうなぎのぼりに増えるという訳には行きませんでしたが、画家を親戚に持つ女性の中から徐々に芸術家が現れ始めました。
とくにネーデルランド地方(今のベルギー、ルクセンブルク、オランダ)は、修道院が多く、装飾写本制作が盛んであったため、比較的多くの女性芸術家を輩出することとなりました。一説では、ネーデルランドの当時の写本制作者のうち4人に一人は女性だったそうです。
しかし、その後、写本が工房で作られるようになり、印刷技術が発達すると女性の作家はほとんどいなくなってしまいました。
当時、画業において女性の参入は大変なことでしたが、一旦マスターになってしまえば男女の差別はさほどなかったようで、彼女たちの多くは人気画家となり、パトロンがついたり宮廷画家になったりと活躍していました。
その後、16世紀半ばになるとジョルジョ・ヴァザーリによって美術学校の前身が作られることになります。この美術学校はイタリアで発生してからフランスへと伝わりました。アカデミズムの誕生です。
美術学校は女性をほとんど受け入れなかったため、ルネサンス期に増えた女性芸術家の数は、その後減少し、次に女性芸術家たちが活躍するまでに300年ほどの歳月が必要になりました。
19世紀半ば、アカデミズムが衰退して美術学校の権威が薄れると、また、次第に女性芸術家の数が増えていきました。当時、アカデミズムの権威に反旗を翻した急先鋒が印象派です。そのため、この頃の女性画家はみんな印象派でした。
ルネサンス期の女性画家リスト
レヴィーナ・テイルリンク(Levina Teerlinc、1510s〜1576)
フランドル地方ブルッヘで生まれの装飾写本作家です。彼女は有名な装飾写本作家である父親の手ほどきを受けたと考えられています。結婚後、30代半ばでイギリスへ渡ってヘンリー8世の宮廷画家となり、その後の生涯をイギリスで送りました。
プラウティッラ・ネッリ(Sister Plautilla Nelli、1524〜1588)
ネッリはルネサンス期のフィレンツエで最初の女性画家です。彼女の父親は成功した織物商で大変裕福でした。ネッリは修道士サヴォナローラに傾倒し、14歳で修道院に入っています。
彼女は、フラ・バルトロメオ、ブロンズィーノ、アンドレア・デル・サルトなどの影響を受け、独学で絵画を習得しました。彼女の作品は大変人気があり、女性ながらヴァザーリの「芸術家列伝」に名前が残っているほどです(芸術家列伝は133名の有名芸術家についてヴァザーリが著した伝記。現代のルネサンス情報の半分はこの本に頼っています)。
2枚目の「受胎告知」の構図は、3枚目のバルトロメオやアルベルティネッリの「受胎告知」の構図と同じです。
彼女の代表作は「最後の晩餐」です。この作品は史上初めて女性の描いた「最後の晩餐」となっています。テーブルクロスの折れ目を見てください。こういうところに気がつくのは女性ならではです。
カタリナ・ファン・ヘメッセン(Catharina van Hemessen 1528〜1565)
記録が残っているフランドル最初の女性画家です。彼女は、アントワープの画家である父親の指導を受け、聖ルカのマスターとなり、肖像画を描いて成功しました。特にイーゼルの前の自画像を描いた最初の画家としても知られています(下図)。
人気のある画家だったヘメッセンは、師匠として3人の弟子も育てています。
ソフォニスバ・アングイッソラ (Sofonisba Anguissola 、1532〜1625)
イタリア・クレモナ出身の女性画家です。一家は下級貴族で、ソフォニスバは7人の兄弟の一番上でした。7人のうち6人は女子でしたが、父親は彼女たちにきちんとした教育を受けさせ、6人中5人は画家に、さらに、一人は作家になっています(下図は自画像)。
ソフォニスバは姉妹の中でもっとも絵画の才能がなかったと言われていますが、そんなことはまったくありません。彼女が「カニに挟まれて泣く子供」の絵(下図)をミケランジェロに送ったところ、彼は彼女の才能を認め、数年に渡って個人レッスンをしてくれました。あの口の悪いミケランジェロが認めたのですから大したものです。
彼女の絵は人物がとても生き生きとしています。ルネサンスの巨匠たちと言えどもこれだけ生き生きとした絵は描けないでしょう。ルネサンス期のもっとも先進的な画家の一人だと思います(個人的な感想です。彼女に対する巷の評価はイマイチです)。
その後、27歳の時にスペインのマドリードでフェリペ2世の妃エリザベート・ド・ヴァロワに認められ、宮廷画家として過ごしました。
フェリペ2世の世話で見合い結婚するも夫と死に別れ、その後に再婚して93歳まで生きて充実した人生をまっとうしました。
ルチア・アングイッソラ(Lucia Anguissola、1536〜1565)
ルチアはアングイッソラ姉妹の三番目の女の子です。絵画については姉のソフォニスバの指導を受けていましたが、6人姉妹に中では一番才能があったと言われています。しかし、残念ながら、30歳くらいで夭折しています。下図は自画像。
ラヴィニア・フォンターナ(Lavinia Fontana、1552〜1614)
イタリア・ボローニャ生まれで画家の父親の指導を受けました。
ラヴィニア・フォンターナは、男性と対等に競った初めての女性画家です。彼女は13人家族の大黒柱であり、夫は家事と育児をしていました。また、当時女性が禁忌とされていた女性のヌードを、ヌードモデルを使って初めて描くなど、あらゆる殻を打ち破った女性画家でもあります(11人も子供を産みながらこの快挙!)。
ボローニャで人気を博すると、49歳で教皇にローマに招かれ、ローマでも大成功を納めています。下図1枚目は自画像、2枚目は史上初めての女性が描いたヌードです。
バルバラ・ロンギー(Barbara Longhi、1552〜1638)
バルバラ・ロンギーは、イタリア・ラヴェンナで生まれ、画家である父親の手ほどきを受けました(下図1枚目は自画像)。生涯についてはほとんど明らかになっておらず、当時、肖像画家として大変尊敬を集めていたものの、現存する肖像画は一点しかありません。主に肖像画と聖母子を描いていました。女性ならではの柔らかくて温かみのある作品です。
マリエッタ・ロブスティ(Marietta Robusti、1560?〜1590)
マニエリスム期のヴェネツィア派の巨匠ティントレットの長女でティントレッタの愛称で知られています。生涯については不明ですが、30歳ほどで夭折しています(下図2枚は自画像)。
彼女の死は、ティントレットの娘の死としてアイコン化され、後の画家たちの絵画モチーフとなりました(下図は死んだ娘を描くティントレット。どちらも19世紀の作品です)。
フェデ・ガリツィア(Fede Galizia、c. 1578– c.1630)
イタリア・ミラノで生まれ、装飾写本作家である父親の指導を受けました。極めて写実的な静物画のパイオニアとして大変有名で、63点の作品のうち、実に44点が静物画です。
静物画は装飾写本などにも見られますが、静物のみを絵画で最初に描いたのはレオナルド・ダ・ヴィンチであろうと言われています。彼は1490年代に水彩で果物を描いています。
また、有名なところでは、1503年に描かれたアルブレヒト・デューラーの草の水彩画があります(下図)。デューラーのリアリズム真骨頂であるこの絵は、彼の代表作となっています。しかし、静物画単体で作品として通用するようになるのは、もう少し後の16世紀半ば頃からです。
成功している女性画家に共通して言えることは、まず、才能、さらに努力、そして父親や夫、パトロンなど、周囲の人たちのサポートです。まあ、女性に限らず男性もこの3つがあれば成功しますよね。
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