新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

初期ルネサンス絵画史のまとめ 主要画家の作品と年表で追う15世紀ルネサンスの100年史

 

 

初期ルネサンス(1400〜1490年頃)絵画史の概要 

 

    ルネサンスは、1300年から1600年まで300年間続きましたが、そのうち、1400年から1490年代までを初期ルネサンスと呼びます。

 

 1400年代の100年間は、美術史上もっとも絵画の革新があった時期です。1400年初頭にはブルネレスキ透視図法を、また、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイク油彩技術を確立しました。さらに、後半になると人体解剖が盛んに行われるようになりました。このような技術革新によって絵画の写実性は格段に向上しました。

 

 ヴェネチアでは帆布を利用したキャンバスが開発され、絵画が安価なものになりました。その結果、一般の人々からの絵画の依頼が増えていきました。

 

 1400年代に入ると、貴族や教会だけでなく、フィレンツェのメディチ家、ミラノのヴィスコンティ家スフォルツァ家、フェッラーラのエステ家、マントヴァのゴンツァーガ家など、富を蓄積した一族が絵画の大きなパトロンになりました。

 

 1400年代半ばになると人間性回復によって古典的題材が復活し、ヴィーナスなどのヌード作品が富豪の邸宅を飾るようになります。時代が進むと、肖像画などや世俗画なども描かれるようになりました。

 

 本項では、画家とその作品、および、歴史的な事柄を合わせて年表化し、初期ルネサンス絵画の100年史をわかりやすく整理してみました。

 

 

年表で追う初期ルネサンスの主な出来事と流れ

 

・1401年、輸入繊維商組合は、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のサン・ジョバンニ洗礼堂についているブロンズ扉のデザインを公募しました。

 

 この公募で最終候補となったのは建築家で彫刻家のフィリッポ・ブルネレスキ(Filippo Brunelleschi 1377 - 1446)と彫刻家のロレンツォ・ギベルティ(Lorenzo Ghiberti 1381 - 1455)でした。

 

 結局、プライドの高いブルネレスキが候補を辞退したため、ブロンズ扉はギベルティが制作することになりました(下図)。

 

 

・1402〜1404年、コンペに破れて(勝手に自分が辞退したのですが)傷心のブルネレスキは、親友の彫刻家のドナテッロと一緒に野宿しながらローマの遺跡を転々としました。この時にブルネレスキは遠近法のアイデアを思いついたと言われています。

 

・1413年、ブルネレスキは、鏡にサン・ジョバンニ礼拝堂とシニョーリア広場を写し、線で結ぶことで消失点の存在を確かめ、透視図法を完成させました。この透視図法はルネサンスの最大の発見です。この理論は、建築だけでなく、その後の絵画に革命をもたらしました。

 

・1416年、ドナテッロ(伊: Donatello、 1386年頃 - 1466年12月13日)は透視図法を使った世界初の彫刻作品「聖ゲオリギオスとドラゴン」(下図)を制作しています。

 

 

 どこが透視図法かと言うと、台座部分の女性の背景の建物部分です(下図)。特に透視図法を使うほどの部分でもないです。立体物に透視図法を使う意味もよくわかんないし。

 

 

・1418年、ブルネレスキはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ(ドーム部分)のコンペに参加しました。当時、世界最大となるドームを建設できる人は誰もいなかったのです。

 

 今回の最終候補者もなんと宿敵ギベルティでしたが、今回はブルネレスキがギベルティを破り、巨大なクーポラを完成させました(下図)。

 

 

・1427年マサッチオ(伊: Masaccio, 1401〜1428)は、透視図法を使った世界初のフレスコ画「聖三位一体」を制作しました(下図)。ドナテッロの取ってつけたような透視図法とは格段の差があります。

 

 マサッチオは、ブルネレスキ、ドナテッロとともに初期ルネサンスの三頭と呼ばれる画家ですが、経歴はまったく明らかになっていません。21歳で彗星の如く現れ、当代随一と謳われたものの、27歳の若さで夭折しています。画家で史上初の美術史家ヴァザーリによれば、マサッチオはライバルの画家に殺されたことになっています。

 

 

・1434年コジモ・デ・メディチ(Cosimo di Medici 1389〜1464)(下図)がフィレンツェの統治者となりました。コジモは芸術を熱愛し、芸術家たちのパトロンとなると同時に、最初の図書館を設立するなど、文化事業も支援しました。

 

 

・1435年、建築家で理論家のレオン・バッティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti、1404〜1472)がブルネレスキの透視図法を彼の著書「絵画論」にまとめて出版しました。この著書によって透視図法が広まっていきました。

 

・1430年頃、初期ヴェネツィア派最大の画家ジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini, 1430〜1516)が生まれました。ジョヴァンニは、ヴェネツィア派の創始者であるヤーコポの息子で、弟の ジェンティーレも、義理の弟のアンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna, 1431〜1506)も画家です。ベッリーニ一族によってヴェネツィア派の基礎が作られました(下図はベッリーニの作品)。

 

 ヴェネツィア派は、イタリアと北ヨーロッパ(ネーデルラントなど)の架け橋となり、ジョルジョーネ、ティツィアーノなどの巨匠を生み出します。ちなみに、彼らは二人ともベッリーニの弟子です。

 

 

・1400年代の初頭、ネーデルランドの初期フランドル派の画家、ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck、1395〜1441)(下図)が油彩技法を確立しました。それまで主流だったテンペラに比べると油彩画は乾燥が遅いため、様々な技法が使えるようになりました。油彩画により、ルネサンスの写実性は格段に向上しました。

 

 

・1436年パオロ・ウッチェロ(Paolo Uccello, 1397〜1475)「ジョン・ホーグウッドの肖像」(下図)を制作しました。ホーグウッドは、イギリスの将軍です。この作品は西洋絵画史上最初期の一般人の肖像画であると言われています。以降、多くの富裕層が肖像画を依頼するようになりました。

 

    肖像画は最初はイコンの影響で真横から描かれていましたが、その後、斜め横から描かれるようになりました。この構図を最初に考案したのもヤン・ファン・エイクです。

 

 

・1445年サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli, 1445〜1510)がフィレンツェで生まれました。ボッティチェッリは、フィリッポ・リッピに師事しています。

 

 

・1452年レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci、1452〜1519)がフィレンツェで生まれました。ダ・ヴィンチは、14歳でヴェロッキオの弟子になっています。

 

 

・1460年頃、油彩技術がヴェネツィア経由でイタリアへ伝わったと言われています。美術史家で画家のジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511〜1574)によれば、イタリアに油彩技術を伝えたのはヴェネツィア派の画家アントネロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina 1430〜1479)です。メッシーナはフランドル地方を旅して油彩技術を学んだとされています。

 

   初期の油彩画は木版に描かれていましたが、港湾都市ヴェネツィアで帆布に描かれるようになり、キャンバスが開発されました。キャンバスは木版に比べると安くて軽いため、一般の人々への絵画の普及に大きく貢献しました。

 

・1472年アンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio、1435〜1488)と弟子のダ・ヴィンチが「受胎告知」(下図)を制作しています。

 

 ヴェロッキオの工房には、ミケランジェロ の師であるドメニコ・ギルランダイオ(Domenico Ghirlandaio、1449〜1494)ラファエロの師であるピエトロ・ペルジーノ(Perugino、1448〜1523)もいました。さらにボッティチェッリも出入りしていたようです。

 

 

・1475年ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475〜1564)がフィレンツェで生まれました。ミケランジェロは13歳でギルランダイオに弟子入りし、14歳の時には神童としてメディチ家への出入りを許されていました。

 

 

 ・1476年、フランドル地方の画家ヒューゴ・ファン・デル・グース(Hugo van der Goes)ポルティナーリ(Portinari)祭壇画(下図)がフィレンツェで公開され、同時に油彩技術についてのデモンストレーションがありました。彼の絵画はフィレンツェにセンセーションを巻き起こしました。

 

 

・1477年、教皇シクストゥス4世がローマでシスティーナ礼拝堂の建設を開始しました。これに伴い、シクストゥス4世は多くの芸術家をローマに招聘しました。

 

・1481年、ルドヴィーコ公の依頼でレオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェからミラノへ移っています。彼はその後17年間ミラノで活躍しました。

 

・1483年ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi、 1483〜1520)がウルビーノ公国で生まれました。彼の父親は宮廷画家でしたが、早くに両親を亡くし、ラファエロは孤児になってしまいました。その後、彼はペルジーノに弟子入りしています。

 

 

・1485年頃、ボッティチェッリが彼のマスターピースである「ヴィーナスの誕生」(下図)を制作しました。この作品は、コジモ・デ・メディチの息子、ピエロの依頼です。

 

 コジモ・デ・メディチは1400年中頃から人文主義者で哲学者のマルシリオ・フィチーノを中心として、プロティノスの新プラトン主義を勉強会する「プラトン・アカデミー」を主催していました。 

 

 

 「プラトン・アカデミー」は、コジモの死後、孫のロレンツォに引き継がれ、多くの知識人を啓蒙しました。

 

 このような啓蒙活動によって、初期ルネサンスの終わり頃から、それまで絵画に描くことを禁じられていたギリシアやローマなどの異教の神々が寓意や象徴として登場するようになりました。 特に、美のイデアを愛する「プラトニック・ラヴ(アモル・プラト二クス)」が神の慈愛に近いものとしてもてはやされ、ヴィーナスが人気の画題となりました。

 

 ちなみに、新プラトン主義とは、プラトンの名前はつくものの、プラトンの500年後にプロティノスが考え出した別物の思想であり、現在はマルシリオ・フィチーノがラテン語に翻訳したもののみが著作として残っています。

 

・1489年、レオナルド・ダ・ヴィンチが人体解剖をはじめました。彼は生涯に30体ほどの遺体を解剖しています。 

 

・1492年、フィレンツェの統治者で芸術の最大のパトロンであったロレンツォ・デ・メディチ(下図)が死去しました。パトロンを失ったフィレンツェでは芸術が徐々に衰退し、システィーナ礼拝堂の建設を進めていたローマへと中心が移っていきます。

 

 

・1494年第一次イタリア戦争が勃発し、フィレンツェも戦果に飲まれてしまいます。フランス軍をフィレンツェに無抵抗で招き入れたロレンツォの息子、ピエロ・デ・メディチは市民の反感を買い、フィレンツェから追放されてしまいました。

 

 戦争によってフィレンツェの時代は終わりを告げます。この後、ミケランジェロもラファエロもローマで活躍しています。

 

 ・1495〜1498年、ルドヴィーコ公の依頼で、レオナルド・ダ・ヴィンチが「モナ・リザ」と共に双璧をなす「最後の晩餐」(下図)をミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院(下1枚目)の壁に描きました。

 

 

・1499年にはミラノも戦果に飲まれ、ダ・ヴィンチも戦争に翻弄されることになります。

 

 

初期ルネサンスの主要画家一覧

 

 画家たちの解説と代表作はこちらをどうぞ。

 

▶︎もっと詳しく! 初期ルネサンス絵画の主要画家と代表作品一覧

 

・ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano、 1360/1370〜1427)

・フィリッポ・ブルネレスキ(Filippo Brunelleschi, 1377〜1446)

・ドナテッロ(Donatello、 1386〜1466)

・フラ・アンジェリコ(Fra' Angelico / Beato Angelico、1390年/ 1395〜1455)

・パオロ・ウッチェロ(Paolo Uccello, 1397〜1475)

・ジョヴァンニ・ディ・パオロ・ディ・グラツィア(Giovanni di Paolo di Grazia, 1399/1403〜1482)

・ドメニコ・ヴェネツィアーノ(Domenico Veneziano 1410〜1461)

・マソリーノ(Masolino da Panicale, 1383〜1440頃)

・マサッチオ(Masaccio, 1401〜1428)

・フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi, 1406〜1469)

・ピエロ・デラ・フランチェスカ(Piero della Francesca, 1412〜1492)

・アンドレア・デル・カスターニョ(Andrea del Castagno, 1420〜1457)

・ヤーコポ・ベッリーニ(Jacopo Bellini、1400〜1470)

・ジェンティーレ・ベッリーニ(Gentile Bellini, 1429〜1507)

・ジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini, 1430〜1516)

・アントネロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina, 1430〜1479)

・アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna, 1431〜1506)

・アントニオ・デル・ポッライオーロ(Antonio del Pollaiolo, 1429/1433〜1498)

・コズメ・トゥーラ(Cosmè Tura, 1430〜1495)

・フランチェスコ・デル・コッサ(Francesco del Cossa, 1430〜1477)

・アンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio, Andrea di Michele di Francesco de' Cioni 1435〜1488)

・メロッツォ・ダ・フォルリ(Melozzo da Forlì, 1438頃〜1494)

・ジョヴァンニ・サンティ

・サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli, 1445〜1510)

・ピエトロ・ペルジーノ(Pietro Perugino, 1448頃〜1523)

・ドメニコ・ギルランダイオ(Domenico Ghirlandaio, 1449〜1494)

・エルコレ・デ・ロベルティ(Ercole de' Roberti, 1451頃〜1496)

・ダヴィデ・ギルランダイオ(Davide Ghirlandaio, 1452〜1525)

・ベネデット・ギルランダイオ(Benedetto Ghirlandaio, 1458〜1497)

・リドルフォ・ギルランダイオ(Ridolfo Ghirlandaio, 1483〜1561)

 

 

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