新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

盛期ルネサンスの絵画史まとめ 巨匠と名画でたどる16世紀初頭のイタリア絵画の歴史

 

 

盛期ルネサンスの絵画史(1490年代〜1527年)概要

 

 イタリアのルネサンスの絵画は、1300年から1400年が「前期」、1400年から1490年代までが「初期」、1490年代から1527年までが「盛期」、その後、1600年までが「マニエリスム期」となっています。

 

 前期の絵画には、写実性とヒューマニズムなど「ルネサンス様式」の萌芽が見られ、初期の絵画では透視図法油彩画の確立によって急速に写実性が向上しました。

 

 盛期ではレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci、1452〜1519)、ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475〜1564)、ラファエロ(Raffaello Santi、 1483〜1520)、ティツィアーノ(Tiziano Vecellio、1488/1490〜1576)などの巨匠が現れ、ルネサンス様式は円熟期を迎えます。

 

    初期と盛期ルネサンスは戦争によってピリオドが打たれてしまいます。その背景には、フランスと神聖ローマ帝国のイタリアをめぐる確執がありました。

 

 本項はイタリアの盛期ルネサンスについて、主要画家と代表作品、歴史上の出来事を含めてわかりやすく解説することを目的としています。

 

 

年表で追う盛期ルネサンスの主な出来事と流れ

 

・1492年、フィレンツェの統治者で大パトロンだったロレンツォ・デ・メディチが死亡しました。ロレンツォの死とサヴォナローラの台頭で、フィレンツェを中心とした初期ルネサンスは終わりを告げます。

 

 

・1494年、フランス王シャルル8世がフィレンツェに侵攻してきました。フィレンツェの統治者となったロレンツォの息子、ピエロ・デ・メディチはこれに抵抗せず、フィレンツェを開け渡してしまいます。その結果、市民の不興を買い、ピエロは追放されてしまいました。

 

 メディチ家が追放されたのち、フィレンツェを実質的に統治したのは、ドミニコ会の修道士ジローラモ・サヴォナローラです。彼は、贅沢品や芸術品を集めて燃やすなど、過激で煽動的な神権政治を行うようになりました。

 

 

 サヴォナローラのせいで仕事のなくなった20代のミケランジェロは この頃、ロレンツォ・ディ・ピエールフランチェスコ・デ・メディチと組んで「キューピッド」の像を作り、酸性土に埋めてローマ時代のものに見せかけて高値で売るという詐欺の計画を立てました。

 

 

 このキューピッドはローマのラファエレ・リアリオ枢機卿が購入しました。しかし、目利きである枢機卿にはすぐに贋物であることがバレてしまいまいます。

 

 詐欺には腹を立てたものの、彫刻の出来に感心した枢機卿はミケランジェロローマへ招きました。さすが枢機卿、懐が深いですね。

 

・1496年ミケランジェロは枢機卿の招待でローマを訪れています。翌年には傑作「ピエタ」を制作しました。

 

 

・1498年、フィレンツェを牛耳っていたサヴォナローラに対する民衆の不満が爆発し、サヴォナローラは捕らえられてシニョーリア広場で火あぶりになってしまいました。サヴォナローラの天下は4年しか続きませんでした。

 

・1499年、サヴォナローラ亡き後、フィレンツェ派であるゴンファロニエーレのピエロ・ソデリーニが台頭、1512年のスペイン軍によるフィレンツェ陥落とメディチ家の復活まで実権を握りました。

 

 この年、ミケランジェロフィレンツェに帰っています。

 

 同年、ルイ12世が率いるフランス軍がイタリアに侵攻し、神聖ローマ帝国と激突、レオナルド・ダ・ヴィンチのいるミラノも戦場と化しました。

 

 

・1499〜1500年、48歳のダ・ヴィンチは、戦禍を逃れるためヴェネツィアへ避難し、翌年にはフィレンツェへ帰りました。

 

 同年、ヴェネツィアではベッリーニの弟子の天才ジョルジョーネ「テンペスタ」を完成させました。この作品は「西洋美術史上最初の風景画」(要するに主題がない絵画)と言われており、ジョルジョーネの代表作となっています。

 

 

・1503〜1506年フィレンツェに帰ってきたダ・ヴィンチは、「モナ・リザ」を制作しました。この作品は2017年時点で時価800億円と見積もられています。

 

 

・1504年、21歳のラファエロフィレンツェを訪ねています。彼は、その後1508年にローマに定住するまで、フィレンツェを中心に各都市を回りました。この頃、ラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチの工房に出入りし、「モナ・リザ」のスケッチを行なっています。

 

 

 ラファエロのモナ・リザには両側に柱がありますが、本物にはありません。このことから、研究者たちは「柱のあるモナ・リザがもう一枚存在するのではないか」と考えて来ました。

 

    そんな中発見されたのが、両側に柱のある「アイスワースのモナ・リザ」です。現在、このモナ・リザの真贋が議論を呼んでいますが、私の見立てではダ・ヴィンチの弟子の作品です。その理由は別項であらためて。

 

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・1504年ミケランジェロ「ダヴィデ像」が完成しました。

 

 ここでトラブルが発生します。本来、この像はフィレンツェ大聖堂の屋根を飾る予定でした。ダ・ヴィンチの推薦でミケランジェロが制作することになったのですが、完成した6トンの彫像は重すぎて大聖堂の屋根に乗りませんでした。(最初の段階でわかりそうなものですが・・・)。

 

 このため、大慌てでダ・ヴィンチボッティチェッリを含む30人の市民からなる専門家会議が召集されました。その結果、ヴェッキオ宮殿の入口に設置することに決定し、もともとあったドナテッロの彫刻を移設してダヴィデ像を据えつけました。ドナテッロには飛んだとばっちりです。

 

 

・1504〜1506年ダ・ヴィンチミケランジェロは、フィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)の「五百人広間」の壁画の依頼を受けました。

 

 ダ・ヴィンチ「アンギアーリの戦い」(下図1枚目)を、また、その対面にはミケランジェロカッシーナの戦い」(下図2枚目)を制作する予定でした。さらに、もう一面の壁はフィリッピーノ・リッピ(ボッティチェッリの弟子)に任されました。

   

 しかし、ダ・ヴィンチミラノへ、ミケランジェロローマへと旅立ち、さらに、フィリッピーノは同年に死亡してしまったため、壁画は下絵でストップしてしまいました。

 

    現存する「アンギアーリの戦い」は、下絵をルーベンスが模写したものです(下図)。それでも凄い迫力ですね。完成していれば、ダ・ヴィンチの最高傑作になっていたでしょう。

 

 

 

 五百人広場の壁画はなぜか完成しないのです。この部屋の呪いはまだ続きます。1510年、フラ・バルトロメオが依頼されたのですが、下絵の段階でスペイン軍に攻め込まれ、結局未完成になってしまいます。

 

   その後、フィレンツェの五百人広場には「アンギアーリの戦い」と「カッシーナの戦い」の下絵だけが残り、多くの人たちが見物に訪れました。

  

 ミケランジェロの「カッシーナの戦い」の下絵は、1512年に破壊されています。ミケランジェロに執心する画家のバルトロメオ・バンディネッリが合鍵を使って5百人広間に忍び込み、作品を切り刻んで持ち帰ってしまったのです。

 

 一方、ダ・ヴィンチの下絵も1500年代半ばにミケランジェロの弟子のジョルジョ・ヴァザーリのフレスコ画「マルチャーノ・デラ・キアーナの戦い」に描き変えられ、なくなってしまいました。

 

 

 ところが、最近になり、ヴァザーリは「アンギアーリの戦い」を破棄しなかったのではないかという説が浮上してきました。その根拠の一つは、「マルチャーノ・デラ・キアーナの戦い」の中に隠されている「CERCA TROVA(探せば見つかる)」(下図)という暗号です。

 

 

 暗号に従い探索した結果、ヴァザーリの作品の裏に空間があることが判明したのです。どうやらヴァザーリは「アンギアーリの戦い」の手前に壁を作り、その壁に自分の作品を描いたようだということがわかってきました。

 

    ダ・ヴィンチを深く尊敬していたヴァザーリは、例え下絵と言えどもダ・ヴィンチの作品を破壊することなどできなかったのでしょう。調査は現在も継続中です。

 

・1505年、教皇ユリウス2世から霊廟の制作を依頼され、ミケランジェロローマへと渡りました。

 

・1508年ミケランジェロは、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂天井画の制作を始めました。この天井画は1512年に完成しています。

 

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 ミケランジェロが天井画を描き始めたこの年、ラファエロもローマ教皇ユリウス2世に招かれローマにやって来ました。

 

・1508〜1509年ラファエロローマで最初に手がけたのは、彼のマスターピースとなるヴァチカン宮殿の「署名の間」の内装です。彼は「署名の間」の3方の壁にフレスコ画を描きました。中でも傑作とされるが「アテナイの学堂」です。

 

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・1510年ヴェネツィアでは天才ジョルジョーネが夭折し、遺作の「眠れるヴィーナス」を弟弟子のティツィアーノが完成させました。

 

 

・1511年、ヴァザーリによれば、ラファエロは、作業途中のミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画を見て、翌年、San't Agostino聖堂のフレスコ画「The Prophet Isaiah」(下図1枚目)を描き上げました。

 

 これを知ったミケランジェロは、ラファエロに盗作されたと騒ぎ立てています。下図1枚目がラファエロ、2枚目がミケランジェロの作品です。ポーズが似ているくらいですね。ミケランジェロラファエロのことを蛇蝎のように嫌っていました。

 

 

 

・1512年、フィレンツェにメディチ家が復帰します。

     

・1513年ミラノからフランスが撤退してしまい、後ろ盾のなくなった61歳のダ・ヴィンチは、フィレンツェに復帰したジュリアーノ・ディ・メディチを頼りました。ジュリアーノはロレンツォの三男で、教皇レオ10世の弟に当たります。

 

 ダ・ヴィンチは年金を支給され、ローマのヴァチカンに部屋を与えられました。しかし、ヴァチカンでは、ミケランジェロラファエロなどの若手の台頭が著しく、大きなコミッションはもらえませんでした。

 

 つい10年前、フィレンツェにいた頃はミケランジェロだってラファエロだって単なる若造だったのに…完全に立場が逆転です。ダ・ヴィンチは大変落胆してしまいました。

 

・1516年、傷心のダ・ヴィンチは、フランス王フランソワ1世の招きでイタリアを捨て、フランスへと移住しました。

 

 フランソワ1世は、ダ・ヴィンチに邸宅を与え、年金も支給しましたが、特に依頼はしませんでした。完全に隠居生活です(下図は邸宅内部)。

 

 

   同年、ヴェネツィアでは、ヴェネツィア派筆頭のジョヴァンニ・ベッリーニが死去し、ティツィアーノがヴェネツィア派トップの肩書きとヴェネツィア共和国公式画家のポジションを手に入れました。

 

 この年、ティツィアーノは、マスターピースとなるサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂の祭壇画「聖母被昇天 (Assumption of the Virgin)」を描き始めました。

 

 

・1519年、67歳のダ・ヴィンチは、フランスで息を引き取りました。ヴァザーリによれば、ダ・ヴィンチはフランソワ1世の腕の中で死んだことになっています。

 

・1520年ラファエロが37歳の誕生日に死亡しました。原因は、女性との過度の情事だったと言われています。

 

・1525年、パドヴァの戦いでフランス王フランソワ1世が神聖ローマ帝国皇帝カール5世に敗れ、捕虜となってしまいます。

 

・1526年、カール5世がフランソワ1世を釈放しましたが、フランソワ1世はカール5世に対抗するため、すぐにイングランド、ヴェネツィア、ミラノとコニャック同盟を結成しました。

 

 この同盟には新教皇クレメンス7世(メディチ家)とフィレンツェ(メディチ家)も加わっていました。しかし、メディチ家は神聖ローマ帝国のおかげで教皇を輩出し、フィレンツェに復権できた経緯がありました。つまり神聖ローマ帝国に恩があったのです。

 

・1527年、メディチ家の裏切りに腹を立てたカール5世は、シャルル3世を指揮官としてローマに進軍させました。途中でシャルル3世は戦死したもののローマは陥落、さらに指揮官を失った軍隊は暴徒と化し略奪と陵辱の限りを尽くしました。これを「ローマ劫掠」と言います。

 

 この結果、ローマに集まっていた多くの芸術家が殺され、教会なども破壊されてローマを中心とする盛期ルネサンスの幕は閉じてしまいます。

 

・1530年、ローマ皇帝カール5世とクレメンス7世が和解、メディチ家のアレッサンドロもフィレンツェに帰還して権力を取り戻しました。

 

・1534年ミケランジェロは、クレメンス7世の依頼によりシスティーナ礼拝堂「最後の審判」の制作に取り掛かりました。作品は41年に完成しています。

 

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・1545年ティツィアーノローマに滞在し、ミケランジェロとヴァザーリが彼の工房を訪問しています。70歳のミケランジェロは、ティツィアーノ「ダナエ」を見て一応その場では賞賛していますが、弟子のヴァザーリには、「ティツィアーノは所詮職人だな」と馬鹿にしています。

 

 

    ミケランジェロとティツィアーノはともにたいへん長生きで、90歳くらいまで元気でした。でも、ここからは盛期ルネサンスの範疇外です。

 

 

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