- ブロンズィーノってだれ?
- ブロンズィーノの生涯と代表絵画
- 1528 holy family
- 1530 Allegorical Portrait of Dante
- 1532 Noli me tangere
- 1545 Portrait of Cosimo I de' Medici
- 1544 Eleonora di Toledo
- 1542 Portrait of Bia de' Medici
- 1540~45 Eleonora Chapel
- Deposition from the Cross(正面の祭壇画)
- Moses Striking the Rock and the Gathering of the Manna(左壁のフレスコ画)
- The Israelites crossing the Red Sea(右壁のフレスコ画)
- 天井画
- 1549 Venus, Cupid and Envy
- 1553 Venus, Cupido and Satyr
- 1552 Portrait of Laura Battiferri
- 1552 Portrait of Nano Morgante
- 1553 Portrait of Maria de' Medici
- 1561 Noli me tangere
- 1564 Allegory of Happiness
- 1565 Deposition from the Cross
- 1569 Martyrdom of St. Lawrence
- 1571~72 Raising of the Daughter of Jairus
ブロンズィーノってだれ?
アーニョロ・ブロンズィーノ(Agnolo Bronzino, 1503〜1572)は、マニエリスム期にイタリアのフィレンツェで活躍した画家です。
彼は、マニエリスム最初の画家ポントルモの弟子であり、ルネサンス様式最後の画家アンドレア・デル・サルトの孫弟子に当たります。ブロンズィーノは20代で肖像画・宗教画家として人気を博し、36歳からは、メディチ家のフィレンツェ公コジモ1世の宮廷画家として一生を過ごしました。
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ブロンズィーノの肖像画は残っていませんが、下のポントルモの作品中で、階段に腰掛けている茶色い服を着た少年がブロンズィーノであると言われています。
ブロンズィーノの絵画の特徴は、ときに「氷のような」と表現される、色味を抑えた冷ややかな画面と陶器のような肌にあります。さらに、マニエリスムの影響で間延びし曲がりくねった人体は、観るものに優雅な印象を与えます。
彼の最高傑作とされているのは、1544〜45年に制作した「愛の勝利の寓意(愛のアレゴリー / Venus, Cupid, Folly and Time)」です。この作品は おそらくコジモ1世がフランス王フランソワ1世に贈るために制作されたものであろうと考えられています。当時フィレンツェとフランス王宮では官能画が流行していました。
「愛の寓意」の中心には、ヴィーナスとキューピッドがいます。キュピッドはヴィーナスの子供でありながらも、彼女の胸を揉み、唇にキスをしています。早い話が近親相姦がモチーフです。
ちなみに、ヴィーナスが手に持つ黄金のりんごは「パリスの審判」の勝利者の証です(パリスの審判を説明すると長くなるので今回は割愛ですが、ヌード画の源流となる重要なお話です)。
この作品には、数々の寓意が織り込まれています。例えば、右上のおじさんは、背中に砂時計を乗せていることから「時」を表し、左上の人物は、頭の中身がないことから「忘却」を表すとされています。時と忘却は、近親相姦中の二人に青い布を掛けようとしています。時が経てばすべては忘却のかなた、ということなのでしょう(布を剥いでいるという説もあります)。
また、左の老婆は「嫉妬」、花びらを撒き散らしている子供は「愚か者」、背後の頭が少女で身体がトカゲの怪物は「偽り」を表していると言われています。トカゲ女は、片手に蜂蜜、もう一方にサソリを持って、どちらかを差し出そうとしています。
この寓意の統一的解釈には多く専門家が四苦八苦しています。でも、散りばめられた寓意は、単にエロティックな絵画に、いかにも哲学的な含蓄があるかのように見せかけるだけのアイテムにしか過ぎないのかもしれません。正解のない謎かけを見ると、人は夢中になり、深い意味があるのではないかと勝手に勘ぐってしまうのです。
ブロンズィーノの生涯と代表絵画
・1503年、アーニョロ・ブロンズィーノ(Agnolo Bronzino、1503〜1572)は、フィレンツェ郊外のモンティセッロ(Monticello)で肉屋の息子として生まれました。彼の本名はアーニョロ・ディ・コジモ(Agnolo di Cosimo)で、ブロンズィーノは愛称です。
ブロンズィーノの名前の由来には、「彼の髪の色がブロンズのようだったから」という説と、「彼の描く肖像画の肌の色がブロンズのような特徴的な色だったから」とする二つの説があります。はっきり言ってどっちでもいいのですが、ウフィツィ美術館の唱えている二番目の説の方が信憑性がありそうです。
ブロンズィーノの友人で、マニエリスムの画家でもあるジョルジョ・ヴァザーリによれば、最初にブロンズィーノに絵の手ほどきを下のは画家のラファエリーノ・デル・ガルボでした。
・1517年、14歳のブロンズィーノはポントルモの工房で働き始めました。ポントルモは1519年から21年までポッジョ・ア・カイアーノにあるメディチ宮の装飾を行なっていました。おそらくブロンズィーノもそれを手伝っていたのでしょう。
・1522年、ブロンズィーノが19歳の時にフィレンツェでペストが流行したため、ポントルモは、ブロンズィーノを連れてフィレンツェの修道院Certosa di Galluzzoに避難しました。
・1523〜25年、ポントルモとブロンズィーノは、避難先の修道院でフレスコ画を制作しています。
・1525〜28年、ポントルモとブロンズィーノは、サンタ・フェリチタ教会のカッポーニ家礼拝堂の装飾を行いました。
カッポーニ家礼拝堂のためにポントルモの描いた「キリストの十字架降架」はマニエリスム絵画の最高傑作の一つとされています。礼拝堂の天井にある4つのトンド(円形パネル絵)の内2つはブロンズィーノの手によるとされています。
1528 holy family
ブロンズィーノによって制作されたこの作品もカポーニ家のコレクションとなっていました。
・1530〜32年、ウルビーノ公の元で働くためペーザロに行き、Villa Imperialeのフレスコ画を制作しています。
・1532年 フィレンツェに戻ったブロンズィーノは、独自の作品を精力的に作り始めました。
1530 Allegorical Portrait of Dante
1532 Noli me tangere
・1539年、36歳のブロンズィーノは、ポッジョ・ア・カイアーノにあるメディチ宮の装飾に従事していたポントルモの手伝いをしています。
同年、彼はメディチ家のフィレンツェ公コジモ1世(Duke of Tuscany, Cosimo de’ Medici)とエレオノーラ・ディ・トレド(Eleonora di Toledo)の結婚式の装飾をする芸術家の一人に選ばれました。その後、ブロンズィーノは実力を認められ宮廷画家となりました。
1545 Portrait of Cosimo I de' Medici
1544 Eleonora di Toledo
1542 Portrait of Bia de' Medici
この作品は、上のエレノアの肖像画と並んでブロンズィーノの傑作とされています。モデルの女の子はコジモの最初の娘で、母親は不明です。コジモとエレノアに愛され大切に育てられましたが、1542年に発熱のため死亡してしまいました。
この肖像画は、彼女の死後、デスマスクを元にブロンズィーノが描き、コジモ一家のプライベート・スペースに飾られていました。
1540~45 Eleonora Chapel
・1540〜45年、ドゥカーレ宮殿内(現ヴェッキオ宮殿内)の公妃エレオノラ・ディ・トレドの私用礼拝堂の装飾を行いました。
Deposition from the Cross(正面の祭壇画)
Moses Striking the Rock and the Gathering of the Manna(左壁のフレスコ画)
The Israelites crossing the Red Sea(右壁のフレスコ画)
天井画
・1544年、上述の「愛の勝利の寓意」を制作しました。ブロンズィーノはキューピッドとヴィーナスの作品を複数描いています。
1549 Venus, Cupid and Envy
この作品では、左に「嫉妬」います。右下の仮面も「愛の勝利の寓意」と同じです。
1553 Venus, Cupido and Satyr
サテュロス(Satyr)は肉体的快楽を表します。ローマ時代にはサテュロスは常に勃起した陰茎を持った姿で描かれていました。
1552 Portrait of Laura Battiferri
ブロンズィーノの傑作肖像画の一枚として名高い作品です。首や手が長く、典型的なマニエリスム・スタイルです。モデルのラウーラはウルビーノ生まれのルネサンス時代の詩人です。
1552 Portrait of Nano Morgante
ナノはコジモ1世が所有する小人です。当時ヨーロッパの宮廷では、小人が珍しい生き物として珍重されていました。彼らは主人の所有物であり、時には贈答品として贈られたりもしていました。小人を所有することは、富と権力の証でもあったのです。
1553 Portrait of Maria de' Medici
モデルのマリアはコジモ1世とエレノアの長女です。彼女もかわいそうなことに17歳で死亡しています。この作品も素晴らしい出来栄えです。
・1557年、先生のポントルモが亡くなりました。ブロンズィーノはポントルモの遺作となったメディチ家のサン・ロレンツォ教会の未完のフレスコ画装飾を完成させました。このフレスコ画は残念ながら現存しません。
1561 Noli me tangere
・1561年、58歳になったブロンズィーノは「Noli me tangere」を制作しました。Noli me tangereとは「私に触れるな」という意味で、復活したキリストがマグダラのマリアに言った言葉です。ちょっと女性のようなイエスがいかにもマニエリスムな作品です。
・1563年、 ブロンズィーノは、ヴァザーリやミケランジェロとともに、歴史上初めてのアカデミーであるアカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョ(Florentine Accademia delle Arti del Disegno)の設立者のひとりとなりました。このアカデミーが後の美術学校になっていきます。
1564 Allegory of Happiness
1565 Deposition from the Cross
1569 Martyrdom of St. Lawrence
・1569年、サン・ロレンツォ教会の巨大なフレスコ画を描き始めました。しかしながら、最後まで完成させることができず、弟子の未完成アレッサンドロ・アローリが完成させました。
この画像ではとてもわかりにくいのですが、左のヘラクレスの彫刻の下に並んだ3つの顔が先生のポントルモ、ブロンズィーノ、そして、弟子のアローリです。
1571~72 Raising of the Daughter of Jairus
ブロンズィーノの最後となる本作品は、サンタ・マリア・ノヴェッラのガッディ教会の祭壇画です。
・1572年、69歳のブロンズィーノは、弟子のアレッサンドロ・アローリの家で亡くなりました。ブロンズィーノはアローリを息子のように可愛がり、彼の家族とともに住んでいました。
人嫌いのポントルモから信頼され、弟子のアローリから愛されたブロンズィーノはきっととても優しい人物だったのでしょう。彼らの間には深い師弟愛が流れていたようです。