新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

ジュリオ・ロマーノの生涯と代表作品 マニエリスムの最高傑作パラッツォ・デル・テ(テ宮殿)

 

 

ジュリオ・ロマーノってだれ?

 

 ジュリオ・ロマーノ(Giulio Romano、1499〜1546)は、マニエリスム期にイタリアのローマとマントヴァで活躍した建築家・画家です。ジュリオ・ロマーノは、日本ではあまり知られていませんが、ルネサンスの芸術家で唯一シェークスピアの作品(冬物語)に登場するくらい有名です。

 

 ラファエロの筆頭弟子だったロマーノは、ラファエロが夭折した後、彼の後継者となり未完成の作品を引き継いで完成させました。ラファエロの死後はマントヴァのゴンザーガ家の宮廷芸術家となって、生涯をマントヴァで過ごしています。下はティツィアーノの描いたロマーノの肖像画です。

 

 

 

 ロマーノは、ローマでフィレンツェのロッソ・フィオレンティーノやパルマのパルミジャーノと出会い、ルネサンス様式から脱却してマニエリスムの傾向を見せるようになった初期のマニエリストの一人です。

 

 特にロマーノが重要視されるのは、絵画よりも建築の分野です。ラファエロから建築の訓練を受けたロマーノは、ラファエロの死後、ルネサンス様式に従わない最初のマニエリスム様式の建築物を建てた芸術家として知られています。

 

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ジュリオ・ロマーノの生涯と代表作品

 

・1499年、 ジュリオ・ロマーノはローマのカンピドリオの近くで生まれました。本名をジュリオ・ピッピ(Giulio Pippi / Giulio di Pietro di Filippo de’ Gianuzzi)と言いますが、ローマで生まれ育ったため、「ロマーノ(Romano)」と呼ばれるようになりました。

 

 彼は、幼少の頃からローマのラファエロのもとで修行を始め、10代半ばにしてすでにラファエロの工房内において最も腕の立つ弟子となっていました。

 

 ラファエロの筆頭アシスタントとして、ロマーノは、ヴァチカン宮殿柱廊(Vatican loggias)のフレスコ画や、ヴァチカン宮殿の4つある「ラファエロの間」などを手伝い、完成させました。

 

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ヴァチカン宮殿柱廊(Vatican loggias)の天井フレスコ画

 

 

ボルゴの火災の間(ボルゴ火災)

 「ボルゴ火災の間」は、4部屋ある「ラファエロの間」の一つです。「ボルゴ火災」のデザインはラファエロですが、仕上げたのはロマーノとラファエロの弟子たちです。

 

 

・1520年、ラファエロは愛人との過度の情事がもとで急死してしまいました。ジュリオ・ロマーノは、ラファエロの死後「コンスタンティヌスの間」「キリストの変容」など彼が残した仕事を完成させています。

 

コンスタンティヌスの間(十字架の出現)

 「コンスタンティヌスの間」も「ラファエロの間」の一つですが、ラファエロはまったく制作に関与していません。この部屋はラファエロの死後、ロマーノの指揮下でラファエロの工房のメンバーによって制作されました。

 

 上のラファエロのデザインの「ボルゴ火災」に比べると、大勢の人々がごちゃごちゃと描かれ、洗練さに欠けています。人物の多さはマニエリスムの特徴です。

 

 

キリストの変容

 マニエリスムの傾向が見られるとされるラファエロの最後の遺作ですが、ほとんどをジュリオ・ロマーノが描いたのではないか?と考えている専門家もいます。

 

 

 ラファエロは、絵画だけではなく、建築家としてもローマで活躍していました。ロマーノは、ラファエロから建築家としての指導も受けており、ラファエロの死後、ジュリアーノ・デ・メディチ(のちの教皇クレメント7世)の別邸マダマ(Villa Madama)の建築と装飾にもたずさわりました。しかし、マダマはローマ劫掠のため完成しませんでした。

 

 

 1520年のラファエロの死から、1524年にマントヴァに移るまで、ロマーノはローマで独自の絵画制作と建築を行っています。この時代、絵画についてはあまり大した作品はありませんが、ラファエロの古典主義から抜け出し、独自の画法へと移行した点に価値があります。

 

1520 'Donna alla toeletta

 

 

1520年代初頭の聖母子

 

 

 

 

 ローマでの主な建築作品。

 

1520-21 Villa Lante al Gianicolo

 

 

1522-23 Palazzo Maccarani Stati

 

 

・1522年、ロマーノの建築のスキルを高く評価していたマントヴァ公フェデリーコ・ゴンザーガから「マントヴァの宮廷芸術家にならないかね?」というオファーが来ました。

 

・1524年、ロマーノはゴンザーガの申し出を承諾し、ローマを後にしてマントヴァに移り住みました。

 

 その後、ロマーノは、筆頭芸術家として毎年1000ドゥカット(1億円くらい)の給料をもらい、マントヴァの建築に関して絶対的な力を持つようになりました。ロマーノは、建築のみならず、重要な外交パーティーの席での装飾や衣装デザインも行なっています。

 

・1525年、ジュリオ・ロマーノの最高傑作と言われるゴンザーガ家の離宮、「パラッツォ・デル・テ(Palazzo del Tè、テ宮殿)」の建築を開始しました。この宮殿は、建築から内装まで全てロマーノとその弟子たちによって行われ、1534年に完成しています。

 

 パラッツォ・デル・テはルネサンスの古典様式に従わないマニエリスム建築の最高傑作の一つとされています。一見、大きな石を積み重ねたような作りですが、実際には石を積み上げたかのように漆喰で凹凸を作っており、騙し絵的要素満載の宮殿になっています。

 

 

 

 パラッツォ・デル・テには多くの部屋がありますが、中でも有名なのは、「Sala di Psiche(プシュケーの間)」、「Sala dei Giganti(巨人の間)」、「Sala dei Cavalli(馬の間)」の3つの部屋です。特に「巨人の間」の迫力のあるフレスコ画「巨人の没落」はマニエリスムの最高傑作の一つに数えられています。

 

Sala di Psiche(プシュケーの間)

 「プシュケーの間」は、神々の愛を描いた官能的なフレスコ画が並んでいます。

 

 

南壁(Tribute to Apollo、Cupid and Psyche)

 

 

 

北壁 (Venus and Mars Bathing、Mars Chasing Adonis from Venus's Pavilion)

 

 

 

 東壁(Polyphemus)

 

 

 西(River Landscape with Springs)

 

 

Sala dei Cavalli(馬の間)

 ゴンザーガ家が所持している名馬の等身大の肖像画が並ぶ部屋です。

 

 

 

Sala dei Giganti(巨人の間)

 オリンポスの神々と巨人族との戦いをテーマにした「巨人の間」は部屋全体が壮大な騙し絵となっています。部屋全体を覆うフレスコ画「巨人族の没落」では、天井からゼウスが発したイナズマによって大地が崩れ、巨人族が滅びる様が描かれています。

 

 

 

 天井

 

 

北壁

 

 

南壁

 

 

東壁

 

 

西壁

 

 

 テ宮殿完成後もジュリオ・ロマーノはマントヴァの筆頭芸術家として君臨し続け、1546年、47歳で死亡しました。 

 

1535 Adoration of the Shepherds(羊飼いの礼拝)

 

 

1540 Allegory-of-immortality(不死の寓意)

 

 

 

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