- 「ラファエロの間」とは?
- 「ラファエロの間」のフレスコ画
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ラファエロの間のフレスコ画と天井画をすべて見られるページを作って見ました。今のところ、すべてのフレスコ画が一気にみられるのは世界中でこのページだけです。
「ラファエロの間」とは?
「ラファエロの間」とは、教皇ユリウス2世の依頼で1508年から1524年にかけてラファエロ・サンティ(Raffaello Santi、 1483〜1520)(下図)とその弟子たちが改修を手がけたヴァチカン宮殿の4つの部屋のことです。4つの部屋には、それぞれ名前があり、壁には、彼らのフレスコ画があります。
・署名の間 (Stanza della Segnatura)
・ヘリオドロスの間 (Stanza di Eliodoro)
・ボルゴの火災の間 (Stanza dell'incendio del Borgo)
・コンスタンティヌスの間 (Sala di Costantino)
1494年、ユリウス2世の前任の教皇であるアレクサンデル6世は、ユリウス2世の部屋の階下に14部屋からなる豪奢な「ボルジアの間」を作りました。
アレクサンデル6世と仲の悪かったユリウス2世は、これが悔しく、自分が前任の教皇より秀でていることを示すため、自分の住居をラファエロに改修させました。
改修工事は長年に渡って断続的に行われています。ユリウス2世もラファエロも改修が終わる前に死んでしまい、「ボルゴの火災の間」と「コンスタンティヌスの間」についてはラファエロの弟子たちが完成させました。
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「ラファエロの間」のフレスコ画
各部屋には4面の壁にフレスコ画があります。実際にラファエロが関わったのは、最も有名な「署名の間」と「ヘリオドロスの間」です。
「ボルゴの火災の間」と「コンスタンティヌスの間」は、ラファエロの死後、ラファエロの工房のメンバーであるジュリオ・ロマーノ(Giulio Romano)、ジャンフランチェスコ・ペンニ(Gianfrancesco Penni)、ラファエリーノ・デル・コッレ(Raffaellino del Colle)らによって改修されました。
署名の間(Stanza della Segnatura)1508〜1511年
ラファエロが最初に手がけた、最も有名な部屋です。この部屋は、もともと使徒座署名院最高裁判所が置かれていましたが、当時はユリウス2世の書庫となっていました。
「署名の間」のフレスコ画には、「宗教」、「哲学」、「詩」、「法」が描かれ、キリスト教と古代の精神の調和がテーマになっています。下図2枚目は天井です。
「署名の間」にあるフレスコ画は以下の通りです。
・「聖体の議論」
・「アテナイの学堂」
・「パルナッソス山」
・「枢要徳」
聖体の議論
このフレスコ画は上下二層になっており、上層にキリストを中心地する天界が、下方に哲学者たちが集う地上が描かれています。キリスト教は全ての哲学に勝ることを表しています。
アテナイの学堂
ラファエロの最高傑作とされる「アテナイの学堂」は、古代ギリシアの哲学者たちを描いており、レオナルド・ダ・ヴィンチをモデルにしたプラトンとアリストテレスが中央で議論し(下図2枚目)、ミケランジェロをモデルにしたヘラクレイトスが物思いにふけっています(下図3枚目)。
パルナッソス山
パルナッソス山は、ギリシャのデルポイにそびえる山でアポロンとミューズが住んでいます。このフレスコ画には、アポロンとミューズを中心として多くの詩人が集う様子が描かれています。
枢要徳
4つ目に壁には、左右に弟子による2枚の絵があり、その上のルネットにラファエロの描いたフレスコ画「枢要徳」があります。
「枢要徳」とは、プラトンやアリストテレスも言及している古代ギリシア以来の西洋の4つの徳目「知慮」、「勇気」、「節制」、「正義」を指します。この作品は「勇気、慎重さ、節制」と同時に「慈悲、信頼、希望」を説いています。
ヘリオドロスの間(Stanza di Eliodoro)1511〜1514年
1511〜14年、ラファエロと弟子たちは「ヘリオドロスの間 」を改修しました。ヘリオドロスの間は、神と教会の加護がテーマとなっています。
この頃からラファエロの絵画の傾向が変化し、コントラストの強い陰影で物語をドラマチックに描くようになりました。バロックの先取りです。
「ヘリオドロスの間 」にあるフレスコ画は以下の通りです。
・「ヘリオドロスの神殿からの追放」
・「ボルセーナのミサ」
・「大教皇レオとアッティラの会談」
・「聖ペテロの放免」
ヘリオドロスの神殿からの追放
ヘリオドロスは、紀元前2世紀のシリア王セレウコス4世の宰相です。彼は、王の命令でエルサレムの宝物を奪いに行きますが、突然現れた神の軍勢の前にほうほうの体で逃げ帰りました。
ボルセーナのミサ
「ボルセーナのミサ」は、パンとぶどう酒がキリストの体に変わるとするカトリックの聖変化の教義に疑いを持ったボヘミアの僧侶の奇跡に基づいています。
1263年、彼がボルセーナのサンタ・クリスティーナ教会でミサを行なった際にパンから血が滴り、テーブルクロスに十字を描きました。
大教皇レオとアッティラの会談
大教皇レオは、三位一体を正当としたローマ司教です。452年、アッティラが率いるフン族がローマに侵攻した際に、レオ1世は身を呈してフン族の王アッティラとの停戦交渉に臨み、説き伏せて撤退させました。
実際には、当時の北イタリアは大飢饉と疫病に見舞われており、飢餓と伝染病で疲弊したアッティラ軍は撤退を余儀なくされました。
しかし、世間はローマ教皇の忠告を守らないアッティラに天罰が下ったと思い、キリスト教の権威が増しました。
聖ペテロの放免
聖ペテロは布教活動のため、度々ヘロデ王に投獄されていたキリスト教の聖人です。このフレスコ画では、天使によって牢獄から救い出される聖ペテロが3つのシーンに分けて描かれています。
真中では天使が聖ペテロを起こし、右のシーンでは、寝ている兵士の間を、天使が聖ペテロを誘導します。左は、天使の光に気がついた兵士が同僚を起こしています。
ボルゴの火災の間(Stanza dell'Incendio del Borgo)1514〜1517年
1513年、依頼主のユリウス2世が死去しました。しかし、部屋の改修は、後継者のレオ10世によって続けられました。「ボルゴの火災の間」は1514年から改修が始まっています。改修後、この部屋はレオ10世の音楽室として使われていました。
「ボルゴ火災の間」のフレスコ画は、教皇レオ3世と4世の生涯をモチーフにしています。
ラファエロは、「ボルゴの火災の間」のフレスコ画「ボルゴの火災」のデザインを行いましたが、残りのフレスコ画については、ラファエロは関与せずに弟子のジャンフランチェスコ・ペンニ、ジュリオ・ロマーノ ラファエリーノ・デル・コッレらが完成させました。
「ボルゴの火災の間」にあるフレスコ画は以下の通りです。
・「ボルゴの火災」
・「レオ3世の宣誓」
・「レオ3世のカール大帝への授冠」
・「オスティアの戦い」
ボルゴの火災
ラファエロのデザインした「ボルゴ火災」は、847年、ヴァチカンの近くのボルゴの近くで起きた激しい火災を、教皇レオ4世が十字を切って鎮めたという奇跡に基づいています。
レオ3世の宣誓
レオ3世のカール大帝への授冠
レオ3世はハドリアヌス1世の後継者でしたが、前教皇ハドリアヌス1世に職権乱用の罪で告発されてしまいます。ハドリアヌス1世に告発されたレオ3世は、前教皇の支持者の襲撃を受け、フランク王国のカール1世に助けを求めました。
翌年(800年)、告発について話し合うため集まった主教たちは、「教皇を裁くことはできない」と宣言し、レオ3世は自ら罪を清めました。
その後、レオ3世はお世話になったカール1世を西ローマ帝国の皇帝として戴冠しています。
オスティアの戦い
オスティアの戦いとは、849年、ローマのオスティア沖で展開されたサラセン人の海賊と教皇・ナポリ・アマルフィ・ガエータ連合軍の海戦を指します。この海戦では、連合軍が圧勝しています。
コンスタンティヌスの間(Sala di Costantino)1520〜1524年
「コンスタンティヌスの間」は、一番大きな部屋で、1520年、ユリウス2世とラファエロの死後、改修が始まりました。改修には4年かかっています。
この部屋の4枚のフレスコ画はローマ皇帝コンスタンティン大帝(1世)のエピソードを題材としており、ラファエロの弟子であるジュリオ・ロマーノが中心となり、ジャンフランチェスコ・ペンニ、ラファエリーノ・デル・コッレなど、ラファエロの工房のメンバーが制作しました。
コンスタンティヌス1世は、306〜337年にローマ皇帝に在位し、キリスト教を容認したことでカトリック教会の聖人となっています。
「コンスタンティヌスの間」にあるフレスコ画は以下の通りです。
・「十字架の出現」
・「ミルウィウス橋の戦い」
・「コンスタンティヌス帝の洗礼」
・「コンスタンティヌスの寄進状」
十字架の出現
ミルウィウス橋の戦い
コンスタンティヌス1世の義父マクシミアヌスはローマ皇帝でしたが、一度退位した後、復権するために彼は義理の息子コンスタンティヌス1世に反旗を翻しました。
コンスタンティヌス1世は、マクシミアヌスの謀叛を鎮めるため、軍隊を進めました。戦闘の前の晩、コンスタンティヌス1世は十字架の夢を見て、「この十字架を戦旗に掲げよ。さすれば勝たん」という神の声を聞きました。
そこで、戦旗に十字架を掲げたところ、310年、ライン川にかかるミルウィウス橋でマクシミアヌスを打ち破りました。
このフレスコ画の中には「Εν τούτω νίκα」という文字がありますが、これはギリシア語で「この印を掲げれば、すなわち勝利する」という意味だそうです。
破れたマクシミアヌスは、王宮に住むことを許されました(義理の父なので)。しかし、娘でコンスタンティヌス1世の妻であるファウスタにコンスタンティヌス1世を毒殺させようとしたことが発覚し、同年に殺されてしまいました。
コンスタンティヌス帝の洗礼
コンスタンティヌス1世は、癩病を患いますが、教皇シルウェステル1世の洗礼によって治癒しました。これに感動したコンスタンティヌスは、皇帝としての全権を教皇に委譲することにしました。このフレスコ画では、コンスタンティヌス1世が教皇シルウェステル1世から聖餐を受け取っています。
コンスタンティヌスの寄進状
コンスタンティヌスの寄進状とは、コンスタンティヌスの書いた「癩病を治してもらったので、皇帝としての全権と領土を教皇に委譲する」という内容の実在する文書です。この文書は歴史上大変重要で、教皇は皇帝より上位であり、皇帝の任命権をもつという根拠となりました。
このフレスコ画では、コンスタンティヌスが教皇シルウェステル1世に寄進状を手渡すところが描かれています。
ところが、18世紀になって、この文書は、8世紀頃、教皇側が自分たちの優位性を説くために捏造したものであることが発覚しました。
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