ラファエロ・サンティ(1483〜1520)ってだれ?
ラファエロ・サンティは、盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家です。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、盛期ルネサンスの3大巨匠の1人に数えられています。ちなみに、ダ・ヴィンチはラファエロの30歳、ミケランジェロは7歳年上です。
ラファエロの生涯は3つの時代に分けられます。
・ウルビーノ時代 1483〜1503年(20歳)
・フィレンツェ時代 1504〜1507年(21〜24歳)
・ローマ時代 1508〜1520年(25歳〜37歳)
ウルビーノ時代にはペルジーノに弟子入りし、その後独立しました。フィレンツェ時代にはダ・ヴィンチに弟子入りし、彼の影響を色濃く受けています。ローマ時代では独自路線を開拓しています。
ラファエロは、ダ・ヴィンチやミケランジェロのような革新の才には恵まれていませんが、物事を吸収して組み合わせ、調和の取れたものを作り出す才能に恵まれていました。ルネサンスの巨匠たちから多くを取り込み、昇華させた作品を数多く制作したため、「ルネサンス様式の完成者」であると目されています。
彼はすべてにわたってそつがなく、器用にこなすことができました。社交的で経営の才能があり、揉め事を調停するのもうまく、弟子が50人という超巨大工房を運営していました。性格が悪くて弟子が居着かなかったミケランジェロとは違います。
効率重視のラファエロは、作品を作り出すときも、過去のドローイングを床に撒いて組み合わせ、新しい構図を生み出していたと言います。一枚の絵に生涯にわたってちまちまと筆を入れ続けていたダ・ヴィンチとは大違いです。
また、野心家で権力欲、名誉欲も強く、ローマで認められることを渇望していました。ローマで教皇の近侍となり、ナイトの爵位を得た後も権力欲には歯止めがかからず、晩年は(といっても死んだのは37歳ですが)枢機卿の地位を狙っていたと言います。
何でも出来て、見た目もハンサムなラファエロは、当然ですが女性にも大変モテ、多くの女性と浮名を流しました。ラファエロは37歳という若さで夭折していますが、その原因も愛人マルガリータ・ルティ(下図)との過度な情事が原因で発熱したためと言われています。性欲も強かったんです。
ラファエロの生涯と代表作品
ウルビーノ時代 1483〜1503年(20歳)
ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi、 1483〜1520)は、中央イタリアの都市国家ウルビーノ公国に生まれました。
父親はウルビーノ公フェデリーコ3世の宮廷画家ジョバンニ・サンティ(Giovanni Santi)です。彼は絵の才能と同時に文学的才能も持っていました。
ラファエルの母マージは、1491年、ラファエロが8歳のときに死亡しています。その後、父ジョヴァンニは再婚しますが、彼も1494年に死亡し、ラファエロは11歳で孤児になってしまいます。
その後、彼は聖職者の叔父バルトロメオに引き取られました。ところが、バルトロメオと彼の妻(ラファエロの継母)の間に諍いが起き、結局、ラファエロは継母と住むことになりました。
ラファエロはきちんとした教育を受けませんでしたが、絵は大変上手でした。ラファエロの父の工房は死後も残っており、幼いラファエロと継母はこの工房の手伝いをしていたと言われています。
下は、ラファエロが10歳で描いた自画像です。
その後、ラファエルはウンブリア派の画家ピエトロ・ペルジーノの工房に弟子入りしています(下図はラファエロのよるペルジーノの肖像画)。
1500 バロンチの祭壇画(Baronci Altarpiece)
・1500年、17歳のラファエロは徒弟期間を終えてマスターになりました。
独立して初めての作品はチッタ・ディ・カステッロのサン・ニコラス・トレンティーノ協会から依頼された「バロンチの祭壇画」です。この作品は、現在断片と下絵が残るのみとなっています。
1502〜1503 モンドの磔刑図(Mond Crucifixion)
「モンドの磔刑図」は、サン・ドメニコ教会の祭壇画として制作されました。
1502〜1504 聖母戴冠の祭壇画(Oddi Altarpiece)
この作品はペルージャのOddi family chapelの祭壇画として制作されました。
1502 Conestable Madonna
1504 聖母の婚礼 (The Marriage of the Virgin)
この作品には先生であるペルジーノの構図の影響が強く出ています。下図2枚目はペルジーノの「聖母の婚礼」です。
1504〜1505 騎士の夢(Vision of Knight)/ 三美神(Three Graces)
この二つの作品はペアだったと考えられています。三美神は初期ルネサンスの画家フランチェスコ・デル・コッサのパクリです(下図3枚目 右上)。コッサの女神は世界最初期のヌード画です。
1504 聖ミカエル(St. Michael)/ 聖ゲオルギオス(St. George)
この頃、ラファエロは天の軍団を統率する大天使聖ミカエルとドラゴンを退治したキリスト教の殉教者聖ゲオルギオスを数枚描いています。
フィレンツェ時代 1504〜1507年(21〜24歳)
この頃のラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチの影響を強く受けました。
・1504年、21歳のラファエロはフィレンツェを訪ね、短期間 レオナルド・ダ・ヴィンチに弟子入りしました。ラファエロは、1508年にローマに定住するまで、ダ・ヴィンチの影響を強く受けた作品を多数残しています。
この時期、ラファエロは「モナ・リザ」や「レダと白鳥」など、ダ・ヴィンチの作品のスケッチを行なっています。
ラファエロの「モナ・リザ」のスケッチには、モナ・リザの背後に2本の柱がありますが、実際の「モナ・リザ」にはありません。このため、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」はもう一枚あるのではないかと言われています。
▶︎もっと詳しく! ダ・ヴィンチとモナ・リザの3つの謎
1505 大公の聖母(Madonna del Granduca)
ラファエロは本作でレオナルド・ダ・ヴィンチのスフマートを使っています。
1506 カーネーションの聖母(Madonna of Pinks)
構図はダ・ヴィンチの「ブノアの聖母」(下図2枚目)の影響を受けています。キリストが花を持っているところも一緒ですね。
1506 ユニコーンと若い女性(Young Woman with Unicorn)
「ユニコーンと若い女性」は、「モナ・リザ」のスケッチをベースにしています。しかし、スケッチに見られたアルカイック・スマイルは認めらません。また、ユニコーン(一角獣)を傍に抱いているところも違います。
この絵は、最初はユニコーンがいませんでした。X線解析の結果、のちの画家が犬を付け足し、さらにそれを誰かがユニコーンに変えたことが明らかになっています。
下図はオリジナルの予想図です。ショールが足されていますが、これは明らかに間違っています。ショールはオリジナルにもなかったはずです。
ラファエロは「モナ・リザ」の構図をとても気に入ったらしく、この時期同じ構図で数枚のポートレートを描いています。下図の1枚目、「Doniの肖像画」はモナ・リザのスケッチに最も似ています。柱はありませんが、左背景のひょろっとした木までスケッチと一緒です。
1507 アレキサンドリアの聖カタリナ(Saint Catherine of Alexandria)
本作はレオナルド・ダ・ヴィンチの「レダと白鳥」のレダのポーズを採用していると言われています。でもレダのポーズはこんなじゃないです。
その他にもフィレンツェ時代には多くの聖母子像を制作していますが、聖母子と洗礼者ヨハネの3人で構成される3角形の構図はレオナルド・ダ・ヴィンチの影響です。
今回は画像が多すぎてしまうので、ウルビーノとフィレンツェ時代でおしまいです。次回記事は、独自の路線を開拓したローマ時代からになります。
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