レオナルド・ダ・ヴィンチはあまり知られていませんが、人類史上初めて正確な解剖スケッチを行った人物でもあります。
残念ながらスケッチを出版しなかったために、その栄光はアンドレアス・ヴェサリウスのものとなってしまいました。ヴェサリウスは「近代解剖の祖」と言われていますが、本来ならダヴィンチこそが「近代解剖学の祖」なのです。
本項の目的はその事実を知って頂き、ダヴィンチの無念を晴らすことにあります(注意 : 本人が無念と思っているかどうかはわかりません)。
ルネサンス絵画の人体表現と解剖学
ルネサンス絵画の写実性の進歩の背景には、古代ギリシア・ローマの科学的かつ理論的な知識の再発見とさらなる発展がありました。それらのうち、絵画に対して特に影響が著しかったのは遠近法と解剖学です。
ルネサンスになると、中世の間ほとんど行われなかった人体解剖が行われるようになりました。解剖学の知見に基づいた描画によって、人体描写は時代とともにリアルになり、盛期ルネサンス(High Renaissance、1475〜1525年頃)で頂点を迎えます。
詳細な解剖学の知見は、ウィトルウィウスの理想的な人体比率と合間って、ルネサンス絵画のリアルで美しい人物表現を可能にました。
さらに、中世まで静的であった人物表現が動的になり、キアロスクーロ、カンジャンテ、スフマート、ユニオーネなどの新しい技法(ルネサンス絵画の4大技法)の助けもあって、ジェスチャーや表情によるヒューマニズムに基づく感情表現も可能となりました。
レオナルド・ダ・ヴィンチと解剖学
ルネサンス期に詳細な解剖の素描を大量に残したのはレオナルド・ダ・ヴィンチです。 彼は、1489年から解剖した人体の詳細な素描を描き始めました。ダ・ヴィンチは、教皇レオ10世に解剖を禁止されるまでの20年で30体近い死体を解剖し、750枚近い素描を遺しています。
ダ・ヴィンチは、1466年、14歳の頃からアンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio 1435〜1488)の工房で絵画の訓練を受けました。
ダ・ヴィンチが最初の頭蓋骨の素描をノートに描き記したのは1489年、37歳頃です。しかし、20歳の時にヴェロッキオを手伝って完成させた作品「キリストの洗礼」には、すでに解剖学に根ざした表現が見て取れると言われています。
このことから、ヴェロッキオとダヴィンチは、この頃解剖学についてある程度の素養を持っていたのではないかと推測されています。
ヴェロッキオの工房の近くには、彫刻家で画家のポッライオーロ兄弟(アントニオ・デル・ポッライウオーロとアントニオ・ディ・ヤコポ・ポッライオーロ)の工房がありました(下図はポッライオーロ兄弟の作品)。当時、ポッライオーロ兄弟は、解剖を行なっていたため、ダヴィンチは彼らに解剖を教わったのではないか、とする指摘もあります。
しかし、二つの工房はフィレンツェ最大級であり、注文を取るためにしのぎを削るライバル同士でした。ダヴィンチは20代半ばで同性愛の疑いで訴えられていますが、これもポッライオーロ工房が陰で糸を引いていたのではないか?と疑われているくらいです。そんなライバルに解剖学を手ほどきするかどうか疑問です。
当初、ダ・ヴィンチは絵画の写実性を高めるために解剖をしていたと言われています。しかし、その後、ミラノで解剖学者のMarcantonio della Torreとともに解剖を進めるうちに、人体そのものに興味を抱くようになり、芸術家としてではなく科学者として人体とその器官の素描を行うようになっていきました。
この時期の彼のスケッチの中には、脊椎や肝硬変、動脈硬化の発見など、正確で科学的価値の高いものが数多く含まれています。
彼の人体構造の素描は、正確性と詳細性において世界初となるものです。しかしながら、書籍としてまとめられていないため、その多くが散逸してしまいました。
現存するもので有名なのは「Anatomical Manuscript A」と「Anatomical Manuscript B」と呼ばれる、イギリス王室が保持している草稿です。この草稿には240枚のイラストと1300語の注釈がつけられています
レオナルド・ダ・ヴィンチとガレノス
1489年から解剖学的素描を行なっていたダ・ヴィンチですが、人間の解剖はそう簡単に行えるものではなかったため、初期は頭蓋骨や骨、筋肉などのスケッチに限られていました。
その頃、観察と同時に彼が参考にしていたのは、ローマ帝国の医者ガレノス(Galen 129〜200)による医学書です。
剣闘士たちの医者をしていたガレノスは、手術を行うことも多く、人間の体の構造に興味を持っていました。しかし、当時人間の解剖は禁止されていたため、マカク猿などの動物を解剖して「基本的に人間も同じである」との注釈を加えて2つの解剖学の著書を書き上げました。
その後、ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国は滅亡してしまいます。ガレノスの医学書は東ローマ帝国で生き延び、ペルシャ帝国などのイスラム圏を経由して11世紀頃イタリアに入ってきました。
中世の間ほとんど医学の進歩がなかった西ヨーロッパでは、ガレノスは医学の権威として扱われ、彼の医学書は書かれて以降1300年にわたって正典とされました。
1300年ってすごいですよ。今から1300年前は日本だったら奈良時代です。1300年前の医学書を使うってことは、今の時代に奈良時代の医学書で診療するようなものです。そんな医者にかかりたくないですよね。ちなみに、ガレノスの医学書は今でも全文をネット上で読むことができますし、出版もされています。
ダ・ヴィンチも当初ガレノスの医学書を参考にしていましたが、「基本的には同じである」とガレノスの注釈が付いているにも関わらず、実際に解剖してみると動物と人間は違うということに気がつきました。ダ・ヴィンチは途中でガレノスの医学書を放棄し、自ら人体を解剖して結果を記述することに没頭していきました。
解剖学の歴史
人体解剖は太古から行われてきましたが、科学的に解剖を行い、その結果に基づいて医学の理論を最初に打ち立てた人物はアレクサンドリア医学学校のヘロフィロス(Herophilus 335〜289 BC)であると言われています。彼は神経回路網を発見し、脳が臓器を制御していることを最初に見出した人です。
さらに、2世紀になるとガレノスが行なった解剖や動物実験の結果がまとめられ、医学書となりました。間違いだらけのガレノスの医学書は、医学の正典として11世紀にイタリアに入ってきました。
12世紀にイタリアに大学が設立されると、皇帝フリードリヒ2世は医学生に対して解剖学のコースを必修としました。解剖学とは言っても、自分たちで解剖するわけではなく、正典であるガレノスの著書を勉強するだけです。
1315年、イタリア・ボローニャ大学の講師モンディーノ・デ・ルッツィによって西ヨーロッパ初の解剖が行われました(下図は当時の解剖の様子)。
モンディーノは、翌年、最初の教科書となる「解剖学(Anathomia Mundini)」を書き上げました。解剖学は、その後250年間大学の教科書として使われましたが、ガレノスの著書を基盤としていたため、多数の間違いがありました。(下図は1541年版モンディーノのアナトミア)
1489年、レオナルド・ダ・ヴィンチが解剖のスケッチを開始しています。彼は、その後20年にわたり、過去の誰よりも正しく詳細な解剖学のスケッチを作成しました。しかし、ダ・ヴィンチはスケッチを出版することはありませんでした。
ルネサンス期に解剖が盛んになっていく中で、ガレノスの間違いを正し、近代解剖学の祖となったのがイタリア・パドヴァ大学のアンドレアス・ヴェサリウスです。
1541年、ヴェサリウスはガレノスの理論が動物の解剖に基づいており、実際の人間から大きくかけ離れていることを指摘し、実際の観察に基づいた解剖学の著書「人体の構造(De humani corporis fabrica)」を2年後に出版しました。
この本は7巻からなる大型のもので挿絵はティツィアーノの弟子であるジャン・バン・カルカル(Jan van Calcar 1499〜1546)が描いたものと考えられています。 下図1枚目なんかかなりイケてます。怖い。
ヴェサリウスの著書「人体の構造」は正しかったものの、当時のガレノス信仰は篤く、この本が広く使われるようになるまで100年を要しました。ヴェサリウスは、この功績により「近代解剖学の祖」と呼ばれており、彼の「人体の構造」のコピー版は現在でも購入可能です。
ヴェサリウスが「人体の構造」を出版したのは1543年ですが、一方でダ・ヴィンチが正確な人体構造の素描を数多く描いたのは1489年からの20年間です。
本来であれば、「近代解剖学の祖」はレオナルド・ダ・ヴィンチであると言ってもおかしくないと思いますが、残念ながら、ダ・ヴィンチは観察結果を体系づけ、まとめて出版することをしませんでした。 発見は出版しなければ発見にならず、ですね。