「モナ・リザ」の3つの謎
「モナ・リザ」には多くの謎があり、その芸術的素晴らしさはもちろんですが、絵が秘めている謎も大きな魅力の一つとなっています。
モナ・リザの謎は大きく分類すると以下の3つになります。
1)制作年はいつなのか?
2)モデルはだれなのか?
3)1)と2)を踏まえた上で、2枚目のモナ・リザは存在するのか?
モナ・リザはいつ描かれたのか?
モナ・リザの制作年については1503〜1506年とする説と1513年以降とする説の2つがあります。一般的には1503年説が採用されています。
1503年説
制作年を1503年とする根拠は3つあります。
1)美術評論家のジョルジョ・ヴァザーリが「1503年にフランチェスコ・デル・ジョコンドの依頼で妻mona Lisaを描いた絵画がある」と彼の著作である「芸術家列伝」に記していること。
2)1503年にアゴスティーノ・ヴェスプッチがキケロ全集に「レオナルドがリザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作している」とメモ書きしていること。
3)ラファエロ・サンティが1504年に描いたとされるモナ・リザのスケッチが存在すること。
このスケッチは、当時短期間ダ・ヴィンチに弟子入りしていたラファエロが、モナ・リザを見て描いたものだとされています。ヴァザーリもラファエロがモナ・リザを模写したことを書き残しています。
1513年以降説
一方、制作年を1513年以降とする説の根拠は2つあります。
1)1517年、Luigi d'Aragon枢機卿の秘書官だったAntonio de Beatisの日記に「レオナルドはジュリアーノ・デ・ロレンツォ・メディチの依頼でフィレンツェの女性の肖像画を制作しいている」との記載があること。
Antonio de Beatisの日記だけでは「女性の肖像画」が何を指すのかわかりません。しかし、2年後、レオナルドが亡くなった時の遺品リストには、女性の肖像画は「モナ・リザ」しかなかったのです。したがって、「女性の肖像画」=「モナ・リザ」である、という推理です。
もし、ダヴィンチが死ぬ前に「女性の肖像画」をメディチ家に納品していたらこの推理は成り立ちません。でも、実は依頼主のジュリアーノは1516年に突然死しており、納品はしなかった可能性が高いのです。
2)モナ・リザのスフマートはレオナルドの後期(1513年以降)のものであり、1503年はあり得ないという専門家の鑑定結果が出ていること。
しかし、描き始めたのが1503年でも、その後ずっと描き加えていたとしたら後期のスフマートが使われていてもいいのでは?と言うことで、これは、1513年説を支持する根拠にはなり得ないでしょう。
まとめ
以上のことから、軍配は1503年説に上がっています。
しかし、1503年と1513年以降に制作した2枚のモナ・リザが存在する可能性もあります。その根拠の一つは、1504年のラファエロのスケッチが私たちの知るモナリザと多くの点で違っていることです。
ラファエロ・スケッチでは、モナ・リザの背後の壁が上部にあります。背景も違いますし、肩に髪がかかっていません。服も胸の上まで来ています。顔もまったく似ていません。さらに、スケッチでは両側に柱があります。
もしかしたら、1503年に描かれたモナ・リザは、私たちの知るモナ・リザではないのかもしれません。
モナ・リザのモデルはだれか?
モナ・リザのモデルの候補は二人います。
一人目は裕福な絹商人であったフランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・デル・ジョコンド(24歳)で、一般的には彼女がモデルであるとされています。
二人目は、フェッラーラのデステ家出身でマントヴァのゴンザーガ家に嫁いだルネサンスきっての才女で芸術愛好家のイザベラ・デステ(29歳)です。
リザ・デル・ジョコンド説
モナ・リザのモデルがリザ・デル・ジョコンドであることを支持する主な証拠は以下の3点です。
1)美術評論家のジョルジョ・ヴァザーリが「1503年にフランチェスコ・デル・ジョコンドの依頼で妻mona Lisaを描いた絵画がある」と彼の著作である「芸術家列伝」に記していること。
2)1503年にアゴスティーノ・ヴェスプッチがキケロ全集に「レオナルドがリザ・デル・ジョコンドの肖像画を制作している」とメモ書きしていること。
3)ダ・ヴィンチの死後、遺品の中にモナ・リザが含まれており、遺品リストに「La Gioconda」と記載があること。
イザベラ・デステ説
モデルがイザベルであることを支持する証拠は以下の二つになります。
1)イザベラのダ・ヴィンチによるスケッチ(1500年制作)がモナ・リザに酷似していること。
2)ダ・ヴィンチに宛てたイザベルの書簡(1501〜6年)の中に肖像画を依頼した文章があること。
まとめ
これらの証拠を勘案して、確実とは言えないものの、現在ではリザ・デル・ジョコンドがモデルであると言われています。
しかし、イザベラ説も完全に否定はできません。イザベラの書簡では、ダ・ヴィンチは肖像画を描くことを承諾しています。
もしかしたら、デル・ジョコンドとイザベラ・デステをモデルとした2枚のモナ・リザが存在したのかもしれません。
モナ・リザは2枚存在するのか?
これらの事実から、多くの専門家は「モナ・リザは2枚ある」と考えてきました。
「モナ・リザ2枚ある説」の根拠
特に、ラファエロのスケッチは「モナ・リザ2枚ある説」の大きな根拠となっています。
先述した通り、ラファエロのスケッチでは、モナ・リザの絵の両側に柱が描かれています。しかしながら、ルーヴルにあるモナ・リザを見ると柱の台座の一部は描かれているものの、柱の全体は描かれていません。
このため、ルーブルのモナ・リザにも最初は柱があったのにその後両側を裁断したのではないか?との説が浮上しました。しかし、実際にはモナ・リザの両側には余白があり、裁断された痕跡も確認できなかったのです。このことから、ルーヴルのモナ・リザには最初から柱がなかったと考えられています。
アイスワースのモナ・リザ
そんな中、1913年に「柱のあるモナ・リザ」がイングランド・サマーセットの貴族の邸宅から見つかったのです。これを「アイスワースのモナ・リザ」(下図)と言います。
「アイスワースのモナ・リザ」は一部の専門家の鑑定の結果、ダ・ヴィンチの作品であるとの結論に達しています。しかし、ダ・ヴィンチ鑑定の権威はキャンバスに描かれているところが怪しいと考えています。確かに、ダ・ヴィンチは板に油彩で描いており、キャンバスは使っていません。
このアイスワースのモナ・リザは一般に公開されていないため、現在でも真贋の程は不明です(匿名の組織が買い取って、金庫に保管しています)。
しかしながら、柱があることを除けばラファエロのスケッチとはかなりの食い違いがあります。私はアイスワースのモナ・リザは真作ではないと思っています。
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まとめ
上記の状況証拠だけでモナ・リザが2枚存在したと決めつけるのは乱暴でしょう。でも、さらにほかの疑問もあります。
たとえば、ダ・ヴィンチが、モナ・リザをずっと手元に持っていたのはなぜでしょう?依頼品なら描き上げたら依頼主に手渡すのが当然です。依頼品を画家がずっと持っているなんて変な話です。
しかし、同じ作品が2枚あればそれも納得できます。1枚を依頼主に渡せばいいにですから。
その後、ダヴィンチはモナ・リザをお世話になったフランス王フランソワ1世に献上したと考えられています。実際に1518年のフランスの財産目録にはモナ・リザが含まれています。
ところが、弟子のメルツィが相続したダヴィンチの遺品リスト(1525年)にもモナ・リザがあるのです。リスト上も2枚のモナリザが存在するのです。
これらを勘案すると、やはりモナ・リザは2枚あったのかもしれません。
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