盛期ルネサンスは1490年代から1527年までです。この時期、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ティツィアーノなどの巨匠が次々と現れ、ルネサンス絵画は円熟期を迎えます。
初期ルネサンスでは、芸術の中心はフィレンツェでしたが、メディチ家の失脚や戦争、サヴォナローラの台頭などで環境が悪化し、盛期ルネサンスでは、徐々に中心がローマに移っていきました。
その盛期ルネサンスも1527年の神聖ローマ帝国による「ローマ劫掠」によって幕を閉じます。
フィレンツェ出身の画家
レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci、1452〜1519)
レオナルド・ダ・ヴィンチは、イタリアの画家、彫刻家、建築家、技師(軍事、土木、治水)、発明家です。絵画、彫刻、演出、建築、解剖、軍事、土木などあらゆる分野で活躍し、「ルネサンス型万能人」と称されます。
ダ・ヴィンチは画家として有名ですが、絵画作品は20点ほどしかありません。
一方、彼は多くの発明や研究をノートに残しており、これらは「Codex(手稿)」と呼ばれています。最近では「レスター手稿」をビル・ゲイツが競り落として話題を呼びました。(確か本としては史上二番目の高値だったと思います)。
ダ・ヴィンチは、14歳でアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入り、ヴェロッキオの弟子として「キリストの洗礼」や「受胎告知」などの制作を手伝いました。
その後、43歳でミラノに渡り、ルドヴィーコ・スフォルツァ公の宮廷画家兼技術者として絵画、彫刻から軍事デザインや舞台演出まで担当しました。この頃の代表作が「最後の晩餐」です。
ダ・ヴィンチは17年間をミラノで過ごしましたが、フランス軍がミラノに侵攻してきたため、フィレンツェに帰還しました。フィレンツェで「モナ・リザ」を描き始め、終生手放しませんでした。
その後、フランス人政治家Charles d'Amboiseによってミラノに呼び戻されています。ミラノからフランスが撤退すると、仕事を求めてローマに移住しました。しかし、ローマで仕事に恵まれず、最後はフランス王フランソワ1世の誘いでフランスに渡って息を引き取りました。
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フラ・バルトロメオ (Fra Bartolomeo、1472〜1517)
フラ・バルトロメオは、ラファエロ・サンティの親友です。彼は大変清廉実直、真面目で物静かな性格でした。その一方で、思い込みが強く、煽動家のドミニコ会修道士ジローラモ・サヴォナローラに傾倒していきました。
サヴォナローラは、メディチ家が追放された後のフィレンツェを牛耳り、芸術や贅沢を弾圧しました。しかし、市民の不興を買い、4年後に火あぶりにされてしまいました。
バルトロメオは、サヴォナローラの処刑後にドミニコ会修道士になっています。一方で、同門のマリオット・アルベルティネッリと共同で工房を構え、多くの作品を制作しました。
しかし、1513年、39歳のアルベルティネッリに愛人が出来ると事態は一変してしまいます。アルベルティネッリは、だらしない生活と浪費を繰り返し、ローンの返済も出来なくなってしまいました。
アルベルティネッリは、その2年後に死亡、バルトロメオもさらに2年後の1517年に大好きなイチジクを食べたあと、4日に渡って発熱し、あとを追うように死んでしまいました。44歳でした。
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マリオット・アルベルティネッリ(Mariotto Albertinelli 1474〜1515)
マリオット・アルベルティネッリは、若い頃からメディチ家のアルフォンシナ・オルシーニの寵愛を受け、芸術家として好スタートを切りました。しかし、後ろ盾のメディチ家が失脚してしまいます。
その後、親友で同門のフラ・バルトロメオと工房を開きました。しかし、バルトロメオがサヴォナローラに傾倒して出家してしまいました。
さらに、バルトロメオと工房を再開して成功した矢先に愛人との自堕落な生活が祟って死んでしまうというビッグチャンスを掴みながらもそれを活かせなかった人生を送りました。
▶︎もっと詳しく! マリオット・アルベルティネッリまとめ
ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475〜1564)
ミケランジェロは、90歳近くまで生きて多くの作品を残しましたが、気むづかしく、陰鬱で頑固な性格だったため、弟子はほとんどいませんでした。
彼は13歳の時にドメニコ・ギルランダイオの工房に弟子入りしています。その後、メディチ家の寵愛を受けますが、メディチ家が失脚して仕事がなくなってしまいました。
そこで、キューピッドの像を作り、ローマ時代のものと偽ってローマの枢機卿に高値で売りつけました。枢機卿は一目で贋作と見破ったものの、彫刻の出来に驚き、20歳のミケランジェロをローマに招きました。このことがミケランジェロの人生の契機となります。
枢機卿の招きでローマに渡ったミケランジェロは、傑作「ピエタ」を制作しています。
その後、フィレンツェに帰ったミケランジェロは「ダビデ像」を作りました。
ミケランジェロは、教皇ユリウス2世から霊廟の制作を依頼され、再度ローマへ渡りました。彼は、ローマでシスティーナ礼拝堂の天井画と「最後の審判」を描き上げています。
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ラファエロ(Raffaello Santi、 1483〜1520)
父親はウルビーノ公フェデリーコ3世の宮廷画家ジョバンニ・サンティ(Giovanni Santi)です。彼は絵の才能と同時に文学的才能も持っていましたが、ラファエロが幼少の頃死亡しています。その後、叔父に引き取られたラファエロは、ペルジーノの工房に弟子入りしました。
20代前半、ラファエロは、フィレンツェを中心に各都市を転々とし、ダ・ヴィンチなどの技術を学びました。
その後、教皇ユリウス2世からヴァチカン宮殿の4つの部屋の改修を依頼されました。この改修は長期間の間に断続的に行われ、ラファエロの死後も続きました。これらの部屋は通称「ラファエロの間」と呼ばれています。とくに傑作とされるのは、「署名の間」のフレスコ画です。
31歳でラファエロはマリナ・ビッビエーナと婚約しました。しかし、ラファエロはこの婚約にあまり乗り気ではなかったようです。その6年後、ラファエロは、愛人のマルガリータ・ルティとの過度な情事のため死亡したとされています。
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アンドレア・デル・サルト(Andrea del Sarto, 1486〜1531)
アンドレア・デル・サルトは、フィレンツェで生まれ、生涯をフィレンツェで過ごしました。彼は、ピエロ・デ・コジモ(Piero di Cosimo)とラファエリーノ・デル・ガルボ(Raffaellino del Garbo )に師事しています。一人前になると、友人のフランチャビージオ( Franciabigio )とともに共同で工房を開きました。
ある日、デル・サルトは、フランスに呼び出され、フランス王フランソワ1世から絵の買い付けを頼まれました。しかし、彼は渡されたお金で絵を買わずに自分の家を買ってしまいました。その後、彼は2度とフランスに戻りませんでした(当たり前ですが)。この一件で、彼への尊敬と信用は地に落ちてしまいました。
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ヴェネツィア出身の画家
ジョルジョーネ(Giorgione、1477/1478〜1510)
ジョルジョーネは、記録がないため、西洋美術史上もっとも謎に包まれた画家の一人です。ジョルジョーネのものであると考えられている作品のうち、彼のサインのあるものはわずかに2点、さらに制作年の入っているものは1点のみです。そのほかに、ほぼ彼の作品と考えて間違いはないであろうと言われている作品は5点しかありません。
彼は、ベネツィアのジョヴァンニ・ベッリーニの下で修行していたと考えられています。その頃ジョヴァンニ・ベッリーニの元にはティツィアーノもおり、ティツィアーノはジョルジョーネの助手をしていました。
ジョルジョーネは33歳の若さで腺ペストで死亡したと考えられており、その後、未完成の作品をティツィアーノが完成させました。
下の作品「テンペスタ」には主題がありません。そのため、絵画史上初の風景画と言われています。
▶︎もっと詳しく! ジョルジョーネまとめ
ロレンツォ・ロット(Lorenzo Lotto、1480〜1556/1557)
ロレンツォ・ロットは、ヴェネツィアで生まれました。当時のヴェネツィアはジョルジョーネやパルマ・ヴェッキオ、ティツィアーノ、メッシーナなど才能のある画家がひしめいており、ロレンツォ・ロットは主流から外れていました。
そこで、ロレンツォ・ロットは、ヴェネツィアを去り、拠点を移しながら注文を取っていました。当時人気画家だったロレンツォ・ロットは、多くの注文に恵まれ、76年の人生で389作品を残しています。
下の作品は「受胎告知」です。突然告知に現れた天使にびっくりして、猫とマリアが逃げ出しています。ルネサンスでは感情表現を重視しますが、さすがにここまでリアルなものは珍しいですね。
晩年期は、半分失明し、70歳くらいから精神的に不安定になって、良好な人間関係が構築できなくなります。結局、ロレンツォ・ロットは、貧困のため生活できなくなり、サンタ・カーザ・ロレート修道院の平修士として76年の人生を終えました。
下の作品はロットの遺作です。上階の誰もいない部屋にはロットの作品が掛けられており、ロットの孤独な人生を表しています。右から部屋に入ってこようとしているのはロット自身です。この作品は、絵画史上、人間の内面を表現した最初の作品です。
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セバスティアーノ・デル・ピオンボ(Sebastiano del Piombo, 1485〜1547)
ピオンボは音楽家でリュートの奏者でしたが、その後、ジョヴァンニ・ベッリーニの工房に入り、ジョルジョーネに師事しました。
ミケランジェロの数少ない友人でしたが、「フレスコ画と油彩画のどっちが優れているか?」というどうでもいいことで大喧嘩となり、二度と口をききませんでした。
ティツィアーノ(Tiziano Vecellio、1488/1490〜1576)
ティツィアーノは、盛期ルネサンスからマニエリスム期のイタリア・ヴェネツィア出身の画家です。「形態のミケランジェロ、色彩のティツィアーノ」と言われ、絵画だけで見れば、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロをも凌駕すると評されるほどの巨匠です。…が、私の評価はそこまで高くありません。
ティツィアーノは100歳くらいまで生き、老衰ではなくペストで死亡したというツワモノです。長生きなので作品も大変たくさんあり、彼自身のものだけで400点以上、工房のものを入れると500〜600点あると言われています。
ティツィアーノはヴェネツィア派筆頭のジョヴァンニ・ヴェッリーニの工房に入り、当時最大の人気を誇ったジョルジョーネの弟子をしていました。
その後、ジョヴァンニ ベッリーニやジョルジョーネといったスーパースターが相次いで死んでしまったため、ヴェネツィア派筆頭画家となり、宮廷画家のポジションも手に入れました。
人生後半は、同じようなヌード画を工房で複数作り、売りさばいてがっちり稼いでいます。