新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

ロレンツォ・ロット入門(後編) ルネサンスの孤高の天才画家ロットの人生と絵画一覧

 

 

 ロレンツォ・ロット(Lorenzo Lotto、1480〜1556/1557)は、盛期ルネサンスからマニエルスム期にかけてイタリアで活躍した画家で、ミケランジェロラファエロと同世代です。

 

 ヴェネツィアで生まれたロットは、色々なところを転々としながら、彼独自の絵画表現を展開しました。そのため、「流転の画家」「反骨の画家」などと呼ばれています。しかし、ロットの表現は、主流に対する「反骨」から生み出されたわけではありません。

 

 

ロレンツォ・ロット(1480〜1556/1557)の生涯と絵画

 

 ロレンツォ・ロット(Lorenzo Lotto、1480〜1556/1557)は、ヴェネツィアで生まれました。幼少の頃の記録がないため、絵をどこで習ったかについてはまったくわかっていませんが、初期のロットの作品には、ジョヴァンニ・ベッリーニジョルジョーネの影響が認められます。

 

・1503〜1506年、当時のヴェネツィアは、ジョルジョーネパルマ・ヴェッキオ、ティツィアーノ、メッシーナなど天才がひしめいていました。そのため、主流から外れていた23歳のロットは、ベルナルド・デ・ロッシ主教の後援を受けて拠点をトレヴィーソ(下図)へと移しました。

 

 

1503 聖母子と殉教者ペトロ

 「聖母子と殉教者ペトロ」は、ロットの最初期の作品です。

 

 

1505 ベルナルド・デ・ロッシ主教の肖像画

 

 

1505 美徳と悪徳の寓意

 「美徳と悪徳の寓意」は、ロッシ主教の肖像画のカバーとして使われていました。この絵では、木を中心にして左側に美徳が、右側に悪徳が描かれています。悪徳側の木は折れて枯れてしまい、美徳側の枝は茂っています。

 

 2枚目も肖像画のカバーだと思われますが、肖像画は入っていません。寓意画ですが、何を示しているか今も専門家の間で議論されている作品です。

 

 

 

・1506〜1508年、ロットは、イタリア、マルケ州のレカナーティへと拠点を移します。

 

 

1506~1508 白いカーテンの前の若い男性の肖像

 本作品は前編でも触れましたが、カーテンは何かを隠していることに対する暗喩であり、右側にちょっと見えているランプは、人知れず淡々と燃える意志を表しています。

 

 

1506 Asolo Altarpiece, main panel

 

・1508年、次第に有名になった28歳のロットは、ローマの建築家ドナト・ブラマンテの目にとまりました。

 

 当時、ローマ教皇になったユリウス2世は、ヴァチカン宮殿内の部屋の改修工事を始めようとしており、ブラマンテは教皇の顧問としてラファエロとロットをローマへ招きました。

 

 ラファエロとロットは、それぞれ、ヴァチカン宮殿の部屋の改修を任されました。ラファエロが改修した部屋は4部屋あり、「ラファエロの間」として大変有名になりました。

 

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 ところがロットの部屋は1つも残っていません。実は、ロットの部屋は、完成した数年後に取り壊されてしまったのです。一説では、ロットの作品はラファエロの模倣であったためであると言われていますが、定かではありません。どちらにしろ、教皇の気に入らない作品であったことは確かでしょう。

 

 当時、ローマはミケランジェロシスティーナ礼拝堂の改修を行うなど、芸術のメッカでした。芸術家にとって、教皇に招かれるということは大変名誉なことであり、また、ビッグチャンスでもありました。そんなビッグチャンスをロットは残念ながらものにすることが出来なかったのです。

 

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・1512年、ロレンツォ・ロットはローマを去り、イタリアのイェージ(マルケ州アンコナ県 下図1枚目)とレカナーティ(マルケ州マチェラータ県)で仕事をしています。ラファエロの影響で、ロットの色彩は以前より豊かになりました。

 

 

 ロットは、イェージで「キリストの降架(Entombment)」を、また、レカナーティのサン・ドメニコ教会の依頼で「キリストの変容(Transfiguration)」を描いています。

 

1512 キリストの降架(Entombment)

 

1512 キリストの変容(Transfiguration)

 

・1513年、ベルガモに移ったロットに富裕層からたくさんの注文が来るようになりました。彼は、モデルのポーズや小物による暗喩を使って、情緒や思いを伝えるような内面を見据える肖像画を数多く描いています。

 

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1513~1516 Martinengoの祭壇画

 ロット独自の画風も成熟し始め、1513〜16年には、ベルガモのSanti Bartolomeo e Stefano教会の依頼で、彼のマスターピースとなる「Martinengoの祭壇画」を制作しました。この豪奢な色使いの祭壇画には、彼独自の活き活きとした構図と独創的な深い陰影描写が見られます。大変美しく楽しい作品です。

 

 

 

・1517年頃には物語画家としても成長を遂げました。 

 

1517 スザンナと長老たち

 「スザンナと長老たち」では庭で沐浴をするスザンナに男たちが言い寄っています。男たちを拒絶したスザンナは、若い男と貫通していたという彼らの虚偽の訴えで逮捕され、死罪を宣告されてしまいました。

 

 そこへ、ダニエルという男性が現れ、男たちを個別に聴取したところ、証言に食い違いがあったため、スザンナは一命を取り止めたというお話です。

 

 この作品の上部に大きく風景を描くところにジョルジョーネの影響が見て取れます。ジョルジョーネは絵画史上初めて風景画を描いた画家として知られています。

 

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・1521〜23年、波に乗っているロットは、Santo Bernardino教会やSanto Spiritio教会などで5つの祭壇画を仕上げています。 上空の天使の短縮法が際立った、斬新で複雑かつ、とても美しい構図です。

 

1521~23 Santo Bernardinoの祭壇画

 

1521~23 Santo Spiritioの祭壇画 

 

1524 Suardi教会のフレスコ画

・1524年、トレスコーレのSuardi教会の依頼で、聖人の生涯のフレスコ画を描きました。

 

 中でも有名なのが下図2枚目のフレスコ画です。この絵画は、新約聖書の「私はワインであなた方は枝である」という言葉を表しています。中心にいるキリストの手から紐状のものが出てますね。ちょっとエイリアン・チックですが、この紐は、ワインを表しています(2枚目は拡大図)。

 

 

 

 ロットはこの時期、教会の依頼だけではなく、個人の依頼もきっちりこなしています。

 

1524 アレクサンドリアの聖カタリナと神秘の結婚

 「アレクサンドリアの聖カタリナと神秘の結婚」は、イエスと婚約する幻覚を見たカタリナという女性を描いたものです。カタリナは聖人ですが、普通に考えれば単なる「危ない人」です。

 

 とてもややこしいことに、聖カタリナは二人いて、一人がアレキサンドリアのカタリナ(300年頃)、もう一人がシエナのカタリナ(1300年頃)と呼ばれています。二人は共にイエスと婚約する幻覚を見ています。

 

 この作品では、聖母子の右側に、手に婚約指輪をしたアレキサンドリアのカタリナが跪いています。

 

 

・1525〜49年、45歳になったロットは拠点をヴェネツィアに移し、工房を開きました。この後、1549年までヴェネツィアで仕事をしています。「ロレンツォ・ロット入門(前編)」で紹介した「受胎告知」はこの頃(1534年)の作品です。

 

 

1530 ヴィーナスとキューピッド

 1510年のジョルジョーネ「眠れるヴィーナス」がきっかけとなり、1530年代のヴェネツィアはヌード・ラッシュでした。コレッジョは1531年に「ダナエ」を描いています。また、ジョルジョーネの弟子のティツィアーノは、1534年に「眠れるヴィーナス」と同じ構図で「ウルビーノのヴィーナス」を描き、その後も「ダナエ」などのヌード画を量産しました。

 

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 ロットはコレッジョやティツィアーノより早い時期にヴィーナスを描いています。

 

 

 

 

・1530〜40年代にかけて、ロットの作品は、さらに複雑で混み合った構成になっていきます。

 

1529 St. Nicholas in Glory with St. John the Baptist, St. Lucy and below St. George Slaying the Dragon

 

 

1539 Madonna of the Rosary

 

1542 The Charity of St. Anthony

 

1543 Angel collecting blood from the wounds of Christ

 

・1549〜56年、69歳になったロットは、マルケ州アンコーナ県ロレートに居を移しました。彼は、この頃から情緒が不安定になり、常にイライラして、ひと所にじっとしていられない、良好な人間関係が構築できない、などの症状が出てきました。

 

 

・1554年、病気で半分失明した74歳のロットは、貧困のためサンタ・カーザ・ロレート修道院の平修士になりました。平修士とは、修道士の下で働きながら修道院で生活を送る人のことです。

 

・1556年、ロットはロレートで死亡します。その前年に描いた絵が前回もご紹介した「キリストの奉献」です。

 

 この絵の上部には、がらんとした寒々しい部屋が広がっています。そこは薄暗く、木製の長椅子には誰も座っていません。壁にはロットの作品が7点かけられているのみです。右の扉からロット本人が部屋に入ってこようとしています。

 

 

 この部屋はロットの人生そのものです。死に際して自分の人生を振り返った時に、友もなく家族もないロットにとって、生きた証は7点の絵のみだったのでしょう。そこからは、深い孤独と不安が感じ取れます

 

 この絵画は、小物を使って人物の性格を暗喩するなどという小手先の技術を使わずに、人間の内面を直接描いた美術史上初めての作品であり、傑作です。

 

 この絵を見る時、人はロットの人生に想いを馳せると共に、自分の人生をも想起することになります。

 

 

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