初期ルネサンス期に芸術の中心地となっていたフィレンツェは、戦争とメディチ家の放逐によって力を失い、芸術の中心はローマへと移っていきました。
1506年、レオナルド・ダ・ヴィンチはミラノへ、ミケランジェロはローマへと活躍の場を移し、1508年には、当時フィレンツェで最も影響力を持っていたラファエロもローマへと居を移しました。
この巨匠たちなき後のフィレンツェで最も影響力を持ったのがフラ・バルトロメオです。しかし、彼も1517年に死亡し、その後アンドレア・デル・サルトが筆頭となりました。
フラ・バルトロメオってどんな画家?
フラ・バルトロメオ(Fra Bartolomeo、1472〜1517)は、16盛期盛期ルネサンスのイタリア・フィレンツェの画家です。彼は、同門のマリオット・アルベルティネッリと共同で工房を構えていました。
バルトロメオは、大変清廉実直、真面目で物静かな性格でした。ただ、そのような人にはありがちですが、思い込みが激しく、煽動家のドミニコ会修道士ジローラモ・サヴォナローラに傾倒し、サン・マルコ修道院の修道士になってしまいます。
修道士になったため、一旦はアルベルティネッリとの共同作業も棚上げされましたが、その後、二人は工房を再開し多くの宗教画を制作しました。
しかし、1513年、39歳のアルベルティネッリに愛人が出来ると事態は一変してしまいます。アルベルティネッリは、だらしない生活と浪費を繰り返し、ローンの返済も出来なくなってしまいました。結局、二人のコンビは解消になってしまいます。
アルベルティネッリは、この2年後に41歳で死亡し、バルトロメオもさらに2年後の1517年に大好きなイチジクを食べたあと、4日に渡って発熱し、あとを追うように死んでしまいました。44歳でした。
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フラ・バルトロメオの生涯と代表作品
フラ・バルトロメオ (Fra Bartolomeo、Bartolommeo di Pagholo、Bartolommeo di S. Marco、1472〜1517年)は、本名をパッチョ・デラ・ポルタ(Baccio della Porta)と言います。バルトロメオという名は、1500年に修道士になってから名乗るようになりました。
・1472年、バルトロメオはフィレンツェのPrato・Savignano村で生まれました。
・1482年、バルトロメオが10才の時に、のちに彼が傾倒するジローラモ・サヴォナローラがフィレンツェのサン・マルコ修道院の修道士に着任しています。
・1483〜4年、ベネデット・ダ・マイアーノの推薦で、当時フィレンツェで大変評価の高かったコジモ・ロッセッリの工房で見習いをすることになりました。バルトロメオは、同門のピエロ・ディ・コジモやドメニコ・ギルランダイオ、フィリッピーノ・リッピなどの影響を受けました。
バルトロメオは、同門で3歳年下のマリオット・アルベルティネッリ(Mariotto Albertinelli)と大変仲良くなり、その後の人生の大半の仕事を共同で請け負っています。
・1491年頃、19歳で仲良しのアルベルティネッリと共同で工房を開きました。
バルトロメオは、20歳を過ぎる頃からドミニコ会の急進派ジローラモ・サヴォナローラに強く惹かれるようになって行きます。当時、サヴォナローラは、ギリシア・ローマの神々を描いた芸術やネオ・プラトン主義に強く反発して、メディチ家を公然と批判し、民衆を煽動していました。下図はバルトロメオ作のサヴォナローラ。
この頃、ギリシア・ローマかぶれの作品を制作していたのはボッティチェッリです。ただ、ボッティチェッリはうまく立ち回り、メディチ家からもサヴォナローラ派からも依頼を受けていました。
バルトロメオは、そんなサヴォナローラに傾倒し、サン・マルコ修道院に出入りするようになります。さらに、異教的なテーマの自分の作品を自ら破棄してしまいました。
・1492年、「偉大なるロレンツォ」と呼ばれたロレンツォ・ディ・メディチが死亡し、愚昧な息子のピエロがその後を継ぎました。
・1494年、フランス王シャルル8世がフィレンツェに侵攻、第一次イタリア戦争が勃発しました。フランスと神聖ローマ帝国に挟まれたイタリアはこの頃から常に戦禍にさらされることになってしまいます。
ピエロ・デ・メディチは、フランス軍を無抵抗でフィレンツェに招き入れたため、民衆の不興を買い、フィレンツェから追放されてしまいました。ピエロはその後、従軍中に溺死しています。
メディチ家がいなくなると、サヴォナローラがフィレンツェの政治顧問となり、神権政治へと移行して行きました。
・1497年、教皇庁の腐敗した権力機構をさんざんこき下ろしたサヴォナローラは、教皇アレキサンデル6世により破門されてしまいます。
これによりタガの外れたサヴォナローラの行動はさらに過激になって行きます。サヴォナローラ一派は、シニョーリア広場に芸術品や贅沢品などを集めて火を放ち、焼き払いました。これを「虚栄の焼却」と言います。
1497 受胎告知
同年、バルトロメオたちは最初の大仕事であるヴォルテッラ大聖堂の「受胎告知」を請け負いました。この作品にはギルランダイオとレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を見て取ることができます。大変構図が似ていますね。(下図2枚目はギルランダイオとレオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」)
1497 聖母子と洗礼者ヨハネ
この作品の背景は、ハンス・メムリングの「玉座の聖母子と二人の天使」(1490年)の背景とほぼ同じです。
・1498年、サヴォナローラの過激で狭量な政治に嫌気のさした民衆が暴徒化し、サン・マルコ修道院に押し寄せました。結局、サヴォナローラは、共和国によって拘束され、シニョーリア広場で縊首の上、火あぶりになってしまいます。
1499 最後の審判
・1499年、現在サン・マルコ修道院にある「最後の審判」の依頼がありました。この作品は、もともとは、Santa Maria Nuovaの病院墓地のチャペルのためのフレスコ画でした。
バルトロメオは制作を開始しましたが、翌年にドミニコ会の修道士になり、作品の制作を途中で放棄してしまいます。
結局、「最後の審判」は、マリオット・アルベルティネッリとジュリアーノ・ブジャルディーニ(Giuliano Bugiardini)が完成させました。
・1500年、バルトロメオは28歳でドミニコ会修道士としてサン・マルコ修道院に入り、「バルトロメオ」と名乗るようになりました。恐らく、彼の中ではサヴォナローラは殉教者であり、その処刑が修道士となる決意を後押ししたのでしょう。修道士となったバルトロメオは、絵をまったく描かなくなりました。
1504 聖ベルナルドゥスの幻視
・1504年、32歳のバルトロメオは、修道院内の工房の責任者になり、絵画の制作を再開します。「聖ベルナルドゥスの幻視」は、ベルナルド・ビアンコの礼拝堂のための作品です。
この年にバルトロメオはラファエロ・サンティと出会いました。ラファエロは、レオナルド・ダ・ヴィンチの工房で短期間助手をしていたのです。バルトロメオは、このときラファエロから遠近法を学んだと言われています。二人は10歳も歳が違うにもかかわらず意気投合し、生涯にわたって友情を育み、仕事の上で影響を与え合いました。
・1508年、36歳になったバルトロメオは、ドミニコ会のSan Pietro Martire教会の依頼でヴェネツィアに向かいました。
1509 神の栄光を讃えるマグダラのマリアとシエナの聖カテリーナ
ドミニコ会の依頼で制作したのが本作品です。ところが、思わぬ問題が起こります。なんと依頼主であるドミニコ会がお金を支払わなかったのです。怒ったバルトロメオは作品をルッカに持って帰ってしまいました。
1509 聖母子と聖人
ルッカでバルトロメオは、修道士になったため棚上げになっていたアルベルティネッリとの共同制作を再開し、「聖母子と聖人」を共同で制作しています。
バルトロメオはジョヴァンニ・ベッリーニやジョルジオーネなどヴェネツィア派の影響受け、この後、色彩豊かになっていきました。
・1510年、フィレンツェ共和国の政治家Pier Soderiniから、フィレンツェ・ヴェッキオ宮殿の500人広間のフレスコ画の依頼が舞い込みました。この仕事は1504年にフィリッピーノ・リッピに依頼されていたのですが、リッピが死亡したため、バルトロメオに白羽の矢が当たったのです。
ちなみに、ルネサンスの画家にはフィリッポ・リッピとフィリッピーノ・リッピがいますが二人は親子です。フィリッポ・リッピの弟子がサンドロ・ボッティチェッリで、その弟子がフィリッピーノ・リッピです。
500人広場といえばレオナルド・ダ・ヴィンチの「アンギアーリの戦い」(下図1枚目)とミケランジェロの「カッシーナの戦い」(下図2枚目)のある大会議場です。大変名誉な依頼です。
ただ、曰く付きであることも確かです。レオナルド・ダ・ヴィンチもミケランジェロも作品を完成させることができませんでした。さらにフィリッピーノ・リッピも依頼を受けた途端に死亡しています。まさに呪いといってもいいでしょう。
あにはからんや、今回も1512年にフィレンツェ政府が崩壊し、メディチ家が復活したため、バルトロメオの作品は未完成となってしまいました。彼の未完の大作はサン・ロレンツォ教会に展示されることになりました。
まあ、「カッシーナの戦い」は切り刻まれてしまい、「アンギアーリの戦い」はヴァザーリのフレスコ画に置き換えられ、なくなってしまったことを考えれば、展示されているだけマシです(現在では「アンギアーリの戦い」はヴァザーリのフレスコ画の背後に隠されていると考えられています)。
1511 聖カテリーナの神秘の結婚と七聖人
1511 ピエタ
・1511年、「聖カテリーナの神秘の結婚と七聖人」(下図1枚目)を制作し、さらに、「ピエタ」(下図2枚目)をフィレンツェ・サン・ガッロ教会にために描き上げました。サン・ガッロ教会は、破壊されてしまい、すでに存在しません。
1511 ピッティの祭壇画
・1512年、「聖カテリーナの神秘の結婚」をフランス王に贈ってしまったため、全く同じ内容でサン・マルコ修道院のために「ピッティの祭壇画(シエナの聖カテリーナの神秘の結婚と聖人たち)」を描きました。
・1513年、42歳の時、マリオット・アルベルティネッリに愛人が出来ました。アルベルティネッリは放蕩にふけるようになってしまい、お金を浪費し、ローンも払えない状態になってしまいます。結局、二人の共同作業はこのことが原因で中止となってしまいました。
アルベルティネッリは、1515年に41歳で死亡し、妻がローンを返済しました。
この年、バルトロメオはローマを訪ね、ラファエロやミケランジェロを研究しました。しかし、流行は自分に合わないと考えたようで、自分の作風に閉じこもるようになりました。
1515 聖マルコ
1515 救世主と四人の福音者
・1515年、ローマから帰還すると、サン・マルコ修道院のために「聖マルコ」を描き上げました。この絵は「聖セバスティアーノ」と対になっていました。
さらに、フィレンツェの商人サルバトーレ・ビッリの注文で「救世主と四人の福音者」を制作しています。
1515 Misericordiaの聖母
1516 キリストの神殿奉献
・1516年、教皇の依頼で「キリストの神殿奉献」を制作しました。
さらに、フェッラーラのアルフォンソ・デステからの依頼で「ヴィーナスの祝祭」を描こうとしましたが未完成に終わり、スケッチだけが残っています。
スケッチを見る限り、画面の真ん中に裸体のヴィーナスが立っているようです。ヴィーナスはバルトロメオの敬愛していたサヴォナローラが最も嫌悪した画題の一つです。43歳でなぜヴィーナスを描く気になったのか不思議です。
・1517年、バルトロメオは、44歳で突然死亡してしまいました。死因は美術史家のヴァザーリによればイチジクの消化不良だそうです。
バルトロメオがもしもっと長生きをしていたらどんな作品を作っていたのでしょうか。サヴォナローラの呪縛から逃れ、もっと自由に作品を制作していたかもしれません。そう考えるとちょっと残念です。
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