- アンドレア・デル・サルトとマニエリスム
- マニエリスムとは?
- アンドレアデルサルトの人生と絵画
- 1509~1526 スカルツォ修道院のフレスコ画
- 1509~1510 アンヌンツィアータ教会のフレスコ画
- 1510~1514 Procession of the Magi(マギの旅)
- 1510~1514 Nativity of the Virgin(聖母降誕)
- 1512 Annunciation(受胎告知)
- 1512 Marriage of Saint Catherine(聖カタリナの結婚)
- 1517 Madonna of the Harpies(アルピエの聖母)
- 1520~ Tribute to Caesar(カエサルへの貢物)
- 1523 John Baptizing(洗礼をするヨハネ)
- 1525 Madonna del Sacco(サッコの聖母)
- 1528 The Annunciation(受胎告知)
- 1528 Holy Family(聖家族)
- 1529 Holy Family(聖家族)
- 1527 Last Supper(最後の晩餐)
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アンドレア・デル・サルトとマニエリスム
アンドレア・デル・サルト(Andrea del Sarto, 1486〜1531)は盛期ルネサンス期にイタリアのフィレンツェで活躍した画家です。彼はフィレンツェの盛期ルネサンス期最後の画家でもあります。
ミケランジェロやラファエロがローマで活躍し、芸術の中心がフィレンツェからローマに移る中、彼は生涯をフィレンツェで過ごし、フラ・バルトロメオの死後、フィレンツェでもっとも影響力のある画家となりました。
アンドレア・デル・サルトのスタイルは、ダ・ヴィンチやラファエロ、フラ・バルトロメオを踏襲しています。その意味で、彼は盛期ルネサンスの申し子ですが、彼の工房は、ヤコポ・ダ・ポントルモ(Pontormo、1494〜1557)やロッソ・フィオレンティーノ(Rosso Fiorentino 、1495〜1540)など次の「マニエリスム期」を担う画家たちを輩出しました。
デル・サルトは、ルネサンス様式の完成者の一人であると同時に、マニエリスム期の先駆けを担う画家として大切なのです。
マニエリスムとは?
「マニエリスム期」とは、一般に「盛期ルネサンス」から「バロック期」への移行期と言われている時期で、「後期ルネサンス」とも呼ばれます。年代で言うと1520年代から1600年くらいまでを指します。
「マニエリスム」とは、イタリア語で「様式」や「方法」を意味する「マヌエラ(maniera)」を語源としています。「マニエリスム」とはざっくり言えば「様式主義」という意味です。
ルネサンスは、「リアリズム」と「理想美」の調和を目指してきましたが、その目標は盛期ルネサンスにおいてレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの3人によって達成されてしまいました。
マニエリスム期になると、画家たちはミケランジェロやラファエロら巨匠が完成した「様式」を理想として模倣しながら、さらにそこへ独自の美意識に基づいた誇張を入れ始めました(下図は誇張がよくわかるパルミジャーノの作品。骨格が伸びています)。
マニエリスムという言葉は、決していい意味ではなく、「様式にとらわれた模倣主義」という意味合いを含んでいます。
しかしながら、マニエリストたちは決して巨匠の模倣だけしていた訳ではありません。彼らは完成されたルネサンス様式に独自の美学を加えることによって、新しい絵画を目指していたのです。
ルネサンス様式は、人間を中心とした古代ギリシアやローマから続く芸術の集大成でした。一方、マニエリスム期は、さらに進んで「個人の美的意識」が芽生えた初めての時代です。
一般的にマニエリスム期の評価は低いですが、本来、マニエリスム期とは「後期ルネサンス」や「ルネサンスとバロックの過渡期」などではなく、「神の中世」、「人間のルネサンス」に続く、「個性の萌芽」が見られる大変重要な時期なのです。
▶︎もっと詳しく! マニエリスムってなに?
アンドレアデルサルトの人生と絵画
アンドレア・デル・サルト(Andrea del Sarto, 1486〜1531)は、1486年、フィレンツェで生まれ、生涯をフィレンツェで過ごしました。本名をアンドレア・ディアグノーロ(Andrea d’Agnolodi Francesco)と言います。
父親のアグノーロ(Agnolo)は仕立て屋だったので、アンドレアは「仕立て屋の(デル・サルト)アンドレア」と呼ばれていました。
・1494年、アンドレア・デル・サルトは金細工職人のもと修行した後、画家で版画家のギアン・バリレ(Gian Barile)のもとで1498年まで学びました。その後、ピエロ・デ・コジモ(Piero di Cosimo)とラファエリーノ・デル・ガルボ(Raffaellino del Garbo )に師事しています。
一人前になると、友人のフランチャビージオ( Franciabigio )とともに共同で工房を開きました。
1509~1526 スカルツォ修道院のフレスコ画
・1509年、独立して最初の依頼は、スカルツォ修道院の回廊(Chiostro dello Scalzo)のフレスコ画でした。
アンドレア・デル・サルトは、モノクロ(grisaille)で、洗礼者ヨハネの生涯をテーマにフレスコ画を描きはじめ、17年の歳月をかけて1526年に16点のフレスコ画を完成させています。
大変繊細なこの一連のフレスコ画は、アンドレア・デル・サルトの代表作となっています。本当は全てのフレスコ画を載せたいのですが、getty imageで購入すると1枚37000円もするので諦めました。
1509~1510 アンヌンツィアータ教会のフレスコ画
・1509〜1514年、アンドレア・デル・サルトとフランチャビージオは、サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会(Basilica della Santissima Annunziata di Firenze)のフレスコ画の依頼を受けました。
アンドレア・デル・サルトは、この依頼のために7枚のフレスコ画を制作しています。そのうち、5枚のフレスコ画は、1285年に死去したServiteの聖人フィリッポ・ベニッツィ(Filippo Benizzi)をモチーフにしており、1510年頃に完成しました。
その後、アンドレア・デル・サルトは、聖セバスティアヌスをテーマに、5枚のフレスコ画を追加依頼されましたが、賃金が安いという理由で断っています。そのため、追加依頼は2枚に減り、「Procession of the Magi(マギの旅)」、「Nativity of the Virgin(聖母降誕)」の2作品を仕上げました。
アンドレア・デル・サルトは、この作品の出来栄えから、「artisat senza errori(失敗しない画家)」と呼ばれるようになりました。
1510~1514 Procession of the Magi(マギの旅)
1510~1514 Nativity of the Virgin(聖母降誕)
・1512年、この年は「Annunciation(受胎告知)」と「Marriage of Saint Catherine(聖カタリナの結婚)」を制作しました。
1512 Annunciation(受胎告知)
1512 Marriage of Saint Catherine(聖カタリナの結婚)
さらに、この年、未亡人のルクレツィア(下図)と結婚しています。彼女は土地持ちで、さらに持参金も持ってきてくれました。
ルクレツィアは、アンドレア・デル・サルトのマドンナのモデルにもなっています。弟子のジョルジョ・ヴァザーリによると、アンドレアや家族のことに無頓着なくせに嫉妬深く、性格の悪い女性だったそうです。
デル・サルトの友人で弟子でもあるジョルジョ・ヴァザーリは、「ルクレツィアはアンドレアが腺ペストで死にそうな時も全く面倒を見なかった」と彼の著書「芸術家列伝」の中に書き記しています。きっとヴァザーリは、ルクレツィアにすごくいじめられたのでしょう。
1517 Madonna of the Harpies(アルピエの聖母)
・1517年、マスターピースの一つである「Madonna of the Harpies」を完成させています。
・1518〜19年、アンドレア・デル・サルトは、弟子のアンドレア・スクアルツェッラ(Andrea Squarzzella)を連れて、フランス王フランソワ1世に招かれてフォンテンブローへ赴きました。
しかし、大きな作品の依頼はなく1年弱でフィレンツェへ帰還しています。理由は妻のルクレツィアから、「帰ってこい」という手紙もらったためであると考えられています。
デル・サルトは、フランソワ1世から「フィレンツェで絵を買い付けてきてほしい」と頼まれて、お金を渡されたのですが、フィレンツェに帰るとそのお金で絵を買わずに自分の家を買ってしまったと言う話が伝わっています。しかし、現在ではこの話の信憑性は疑われています。
1520~ Tribute to Caesar(カエサルへの貢物)
・1519〜20年、教皇レオ10世の依頼でローマへ赴き、フィレンツェ近郊の都市ポッジョ・ア・カイアーノにあるメディチ宮のフレスコ画の制作を始めました。ところが翌年レオ10世がぽっくり死んでしまい、このフレスコ画は棚上げになってしまいました。
・1520年、ローマから帰還したアンドレア・デル・サルトは、フィレンツェに家を購入し、スカルツォ修道院のフレスコ画の仕事を再開しました。
・1523〜24年、腺ペストの流行でフィレンツェを離れました。
1523 John Baptizing(洗礼をするヨハネ)
1525 Madonna del Sacco(サッコの聖母)
・1525年、サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の「Madonna del Sacco」を制作しました。
・1526年、スカルツォ修道院での最後の仕事となるフレスコ画「Birth of the Baptist(洗礼者の誕生)」を完成させています。
1528 The Annunciation(受胎告知)
1528 Holy Family(聖家族)
1529 Holy Family(聖家族)
1527 Last Supper(最後の晩餐)
・1527年、「Last Supper(最後の晩餐)」を完成させました。本作品は彼の遺作となりました。
・1530年、43歳で腺ペストで死亡し、フレスコ画を描いたサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会に埋葬されました。夭折してしまったのは残念ですが、自分の作品で満たされている教会に埋葬されるなんて画家冥利に尽きますね。
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