新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

ジョルジョ・ヴァザーリってだれ? ルネサンスを作った画家・建築家・美術史家ヴァザーリとは。

 

 

ジョルジョ・ヴァザーリってだれ?

 

 ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari、1511〜1574)は、イタリアのマニエリスム期の画家・建築家です。ヴァザーリは、アンドレア・デル・サルトの工房でポントルモロッソについて教育を受け、ミケランジェロに心酔して弟子となりました。ちなみに、ポントルモとロッソは17歳、ミケランジェロは36歳年上です。

 

 

 彼は芸術家であるだけでなく、美術史上初の美術史家でもあります。私たちが手にしているルネサンスの芸術家に関する情報の半分以上は、ヴァザーリの著書「画家・彫刻家・建築家列伝」からのものです。彼がいなければ、私たちはルネサンスのことをほとんど知らずに過ごしていたかもしれません(ルネサンスという言葉もなかったかも)。

 

 

 また、美術史上初めてアカデミー(アカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョ)を発案し、ミケランジェロらと創設したのもヴァザーリです。1563年にヴァザーリの創立したアカデミーは、現在は「フィレンツェ美術学校(Accademia di Belle Arti Firenze)」になっています(下図はアカデミー本部)。

 

 その後、ローマに「アカデミア・ディ・サン・ルカ」が設立され、1648年にはフランスで「芸術アカデミー(Académie des Beaux-Arts)」の前身となる「王立絵画彫刻アカデミー」が設立されました。

 

 印象派をはじめ、多くの近代絵画派閥は、これらアカデミズムに対する反発から生まれてきました。そういう意味では、ヴァザーリこそ現代に通じる全ての西洋美術の生みの親と言っても過言ではないと思っているのですが、如何せん、彼への評価は不当に低い!と言わざるを得ません。

 

 

 

ヴェッキオ宮殿500人広間の物語

 

 ヴァザーリの絵画作品は、通常アシスタントが手伝うチーム制で作成されていたため、フレスコ画などの大作が数多く残されています。代表作の一つはヴェッキオ宮殿(下図1枚目)の「500人広間(Salone dei Cinquecento)」(下図2枚目)のフレスコ画でしょう。

 

 

 

 ヴェッキオ宮殿はもともとフィレンツェ政庁舎として使われていた建物です。通称「500人広間」は、奥行き54メートル、幅23メートル、高さ18メートルという広大な広間で、1495〜96年にジローラモ・サヴォナローラの委託で建設されました。

 

 1494年にメディチ家が失脚した後、フィレンツェの実権を握った修道士サヴォナローラは、五百人以上の市民からなる評議会を創設しました。「500人広間」は、この評議会の会議場として建設されたのです。

 

 しかし、4年後の1498年に、サヴォナローラはヴェッキオ宮殿前のシニョーリア広場で、フィレンツェ市民によって火あぶりにされてしまいました。下はフラ・バルトロメオによるサヴォナローラです。

 

 

 6年後の1504年、レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロが500人広間の壁画の依頼を受けました。

 

 ダ・ヴィンチは「アンギアーリの戦い」(下図1枚目)を、また、その対面にはミケランジェロがカッシーナの戦い」(下図2枚目)を制作する予定でした。さらに、もう一面の壁はフィリッピーノ・リッピ(ボッティチェッリの弟子)に任されました。

   

 しかし、ダ・ヴィンチはミラノへ、ミケランジェロはローマへと旅立ってしまい、さらに、フィリッピーノは同年に死亡してしまったため、壁画は下絵でストップしてしまいました。

  

 

 

 フィリッピーノ・リッピが死んでしまったため、1510年、今度はフラ・バルトロメオにフレスコ画の依頼が舞い込みます。

 

 しかし、今回も1512年にフィレンツェ政府が崩壊し、メディチ家が復活したため、バルトロメオの作品は未完成となってしまいました。彼の未完の大作はサン・ロレンツォ教会に展示されることになりました。

 

 

   その後、フィレンツェの500人広場には「アンギアーリの戦い」と「カッシーナの戦い」の下絵だけが残り、多くの人たちが見物に訪れました。

  

 1512年、メディチ家のフィレンツェ復活に紛れてもう一つの事件が起こります。ミケランジェロに執心する画家の一人、バルトロメオ・バンディネッリが合鍵を使って500人広間に忍び込み「カッシーナの戦い」を切り刻んで持ち帰ってしまったのです。

 

 1555年、メディチ家のフィレンツェ公コジモ1世は、ヴェッキオ宮殿を居城とするためにヴァザーリに命じて改築をはじめました。

 

 ヴァザーリはコジモ1世の命により、500人広間の壁面にフィレンツェの軍事的勝利を描いた6枚のフレスコ画を、また、天井にはコジモ1世のエピソードをモチーフにした39のパネル画を描きました。

 

 この改修によって、ミケランジェロの「カッシーナの戦い」だけでなく、ダ・ヴィンチの「アンギアーリの戦い」も無くなってしまったかに見えました。

 

 

 ところが、最近になり、ヴァザーリは「アンギアーリの戦い」を破棄しなかったのではないかという説が浮上してきました。その根拠の一つは、ヴァザーリのフレスコ画「マルチャーノ・デラ・キアーナの戦い」の中に隠されている「CERCA TROVA(探せば見つかる)」(下図)という暗号です。

 

 

 暗号に従い探索した結果、ヴァザーリの作品の裏に空間があることが判明したのです。どうやらヴァザーリは「アンギアーリの戦い」の手前に壁を作り、その壁に自分の作品を描いたようだということがわかってきました。

 

    ダ・ヴィンチを深く尊敬していたヴァザーリは、例え下絵と言えどもダ・ヴィンチの作品を破壊することなどできなかったのでしょう。調査は現在も継続中です。

 

 

ジョルジョ・ヴァザーリとフィレンツェ歴史地区 

 

 現在では、ヴァザーリの絵画作品は表面的で中身がなく、色のセンスもないと酷評されています。でも、当時、ヴァザーリは大変な尊敬を集め、メディチ家のフィレンツェ公コジモ1世の筆頭芸術家として、フィレンツェの建築や装飾の責任を担っていました。実際、彼はフィレンツェ歴史地区の多くの建物に足跡を残しています。

 

 

 ヴァザーリが当時いかに権力を持っていたかは、彼が自分でデザインした壮麗な邸宅Casa Vasari(下図)を見ればわかります。まるで宮殿ですよね?彼の邸宅は現在美術館になっています。

 

Casa Vasariのホームページはこちら

http://www.museistataliarezzo.it/en/museo-casa-vasari

 

 

 

 ヴァザーリは、画家としての評価はあまり芳しくありませんが、建築家としては現在でも高く評価されています。もっともよく知られている彼の建築物は、ヴェッキオ宮殿の隣にある「ウフィッツィ(Uffizi)」(下図)でしょう。

 

 コジモ1世の要請で1560年に着工したこの建物は、もともと行政機関の事務所として使われていました。Uffiziの語源は、イタリア語でオフィスを表す「Ufficio」にあります。現在は美術館として使われています。

 

ウフィッツィ美術館のホームページはこちら

https://www.uffizi.it/

 

 

 さらにヴァザーリは、ウフィッツィから、アルノ川を越えたピッティ宮殿までを結ぶ1キロに及ぶ「ヴァザーリの回廊」も建設しています。

 

 ピッティ宮殿は、コジモ1世がエレオノラ妃のために購入した宮殿で、後にメディチ家の居城として使われることになります。一方、コジモ1世は、もともとフィレンツェ共和国政庁舎だったヴェッキオ宮殿をヴァザーリに改築させ住居として使っていました。ヴェッキオ宮殿は現在もフィレンツェの市庁舎として使われていますが、ピッティ宮殿は美術館となっています。

 

ピッティ宮殿のホームページはこちら

https://www.uffizi.it/palazzo-pitti

 

 下図1枚目は「ヴァザーリの回廊」です。右から出てアルノ川を渡り、Z状に左手に伸びています。左手がピッティ宮殿、右手側がウフィッツィになります。アルノ川にかかる橋はヴェッキオ橋で、地階は普通の人々が行き交い、上階部分が「ヴァザーリの回廊」になっています。

 

 下図2枚目はピッティ宮殿です。

 

 

 

 ヴァザーリの評価が不当に低い事に怒りを感じて文章を書いていたら、前置きだけで長くなってしまいました。また次回に続きます。  

 

 

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