マリオット・アルベルティネッリってどんな画家?
マリオット・アルベルティネッリ(Mariotto Albertinelli / Mariotto di Bigio di Bindo Albertinelli 1474〜1515)は盛期ルネサンスに活躍した画家です。活躍したというのは言い過ぎかもしれません。巨匠と言うにはちょっとマイナーです。
マリオット・アルベルティネッリは、メディチ家のアルフォンシナ・オルシーニの寵愛を受けるものの、メディチ家が失脚、その後、親友で同門のフラ・バルトロメオと工房を開いたのはいいが、バルトロメオが出家してしまい、工房を再開して成功した矢先に愛人との自堕落な生活が祟って死んでしまうというビッグチャンスを掴みながらもそれを活かせなかった人生を送りました。
最後は愛人を作って破滅の道を歩んだアルベルティネッリですが、本来はとても良い性格で責任感もありました。工房の共同経営者であるフラ・バルトロメオが投げ出した仕事も、アルベルティネッリがきっちりと終わらせています。根が真面目なだけに一度女性に入れ上げると大変なのかもしれません。
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マリオット・アルベルティネッリの人生と代表的絵画
マリオット・アルベルティネッリ(Mariotto Albertinelli 正式にはMariotto di Bigio di Bindo Albertinelli 1474〜1515) は、フィレンツェの金細工師の一人息子として生まれました。母親は5歳の時に死亡しています。
・1486年、アルベルティネッリは12歳まで金細工しを目指していましたが、12歳でコジモ・ロッセッリに弟子入りしました。
このロッセッリの工房で生涯ともに仕事をするフラ・バルトロメオと出会います。当時、バルトロメオは3歳年上の15歳でした。
アルベルティネッリはデッサンを学ぶため、工房だけでなくメディチ家にも出入りしていました。メディチ家には、絵の勉強のために模写できる巨匠の作品が数多くありました。アルベルティネッリは、自分のデッサンの腕が仲間より劣ることをきちんと認識し、少しでも上手くなるために努力していたのです。
そんな中、ピエロ・ディ・メディチの妻であるアルフォンシナ・オルシーニ(Alfonsina Orsini)と出会います。アルフォンシアはアルベルティネッリより2歳年上でした(下はボッティチェッリのアルフォンシナです)。
若い二人は友情を育み、アルフォンシナはアルベルティネッリのパトロンとして彼を支えました。恐らくアルフォンシナは、アルベルティネッリの才能よりも彼自身に愛情を寄せていたのでしょう。
この頃のアルベルティネッリは、アルフォンシナをはじめ、上流階級の人たちのための小品を制作していました。
当時のフィレンツェでメディチ家の寵愛を受けるということは、すなわち芸術家としての成功を意味します。アルフォンシアと仲のいいアルベルティネッリの将来は約束されていました。
ところが、思った通りに運ばないのが世の中の常です。1494年、アルベルティネッリが20歳の時にフランス軍がフィレンツェに侵攻してきました。
アルフォンシナ・オルシーニの夫であるピエロ・ディ・メディチ(下図)はなんの抵抗もせずフランス軍をフィレンツェへと招き入れてしまいました。これに反発したフィレンツェの市民はピエロ・ディ・メディチをフィレンツェから追放してしまいました。
当時のフィレンツェの法律では、女性と子供は追放されないことになっていました。しかし、財産は差し押さえられ、使えるのは妻の持参金のみと決まっていました。
アルフォンシナの持参金は、メディチ家の財産にすでに組み込まれていたため、彼女は追放はされなかったものの、まったくお金を使うことができなくなってしまいました。
アルフォンシナは、その後、ピエロ・ディ・メディチを追ってローマへと逃れています。ピエロはフィレンツェの地を2度と踏むことなく、1503年に放浪生活の中、水死してしまいました。
アルベルティネッリは大いにショックを受けたでしょう。親友のアルフォンシアをなくし、約束された将来がふいになり、日々の収入源も断たれてしまったのですから。
・1494年、結局、20歳のアルベルティネッリは、親友で同門の先輩であるフラ・バルトロメオ(下図)と共同で工房を立ち上げました。
アルベルティネッリのテクニックは次第にバルトロメオに追いつき、二人のテクニックは区別できなくなって行きました。そのため、後世の専門家は作品の帰属に悩まされることになります。
ところが、ここでも大きな問題が発生します。
当時、ドミニコ会の修道士であるジローラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)(下図)が贅沢や権力を嫌い、公然とメディチ家を非難していました。ピエロ・ディ・メディチが追放されると、フィレンツェの実権をサヴォナローラが握るようになったのです。
彼は、民衆を煽動し、芸術品や贅沢品を焼払い、強力な神権政治を推し進めました(下図はバルルトロメオの描いたサヴォナローラです)。
真面目なフラ・バルトロメオは、煽情的かつ独裁的なサヴォナローラに傾倒していき、それまでの自分の作品も焼き捨ててしまいました。
アルベルティネッリは辛い立場です。親友で今や一緒に仕事もしているバルトロメオは、贅沢を否定し、メディチ家を嫌っています。しかし、メディチ家は彼にとっては大恩人でアルフォンシアは親友です。自分の親友同士が敵対した立場にあるのです。さらに悪いのはそこにお金も絡んでるところです。
・1500年、アルベルティネッリが26歳のとき、ついにフラ・バルトロメオが工房をやめてドミニコ会の修道士になってしまいました。
アルベルティネッリは苦悩します。二人の工房では、収益は折半ではあったものの、先輩であるフラ・バルトロメオの方が技術も上で、常にリーダー格でした。 悩んだ末、アルベルティネッリも一時はバルトロメオとともに修道士になることも考えました。
しかし、この時、二人の工房は、Santa Maria Nuovaの病院墓地のチャペルのためのフレスコ画「最後の審判」を受注したものの、まだ作品を完成させていませんでした。ただ、バルトロメオによる下描きと多くのスケッチは残されています。
結局、アルベルティネッリは依頼者に口説かれ、作品を完成させる決心をしました。この作品を完成させたことにより、アルベルティネッリの評価は一気に高くなりました。何よりもよかったのは、彼自身の自信となったことです。
1449 最後の審判
この後、マリオット・アルベルティネッリはフラ・バルトロメオから独立して制作をはじめ、多くの仕事が舞い込むようになりました。
1503 受胎告知(Annunciation)
・1503年、フィレンツェのサン・マルティーノ会礼拝堂(Chapel of Congregazione di San Martino 現Church of Santa Elisabetta)の祭壇画の制作を依頼されました(下図1〜3枚目)。
彼の「受胎告知」(下図4枚目)はヴェロッキオとレオナルド・ダ・ヴィンチの影響が見て取れます。マリオット・アルベルティネッリとフラ・バルトロメオは、1497年にも同じような構図で受胎告知を描いています(下図5枚目)。
1504 聖母の訪問(Visitation)
さらに、この年、マリオット・アルベルティネッリのマスターピースとなる「聖母の訪問(Visitation)」を描いています。この作品はアルベルティネッリの作品の中では出色の出来栄えです。
・1505年、軌道に乗り始めたアルベルティネッリは、31歳でワイン商の娘アントニアと結婚しました。
1505 降誕(Nativity)
1506 聖母子と聖人たち(Madonna and Child with Saints)
1509~11 聖母子と聖人
・1509年にはフラ・バルトロメオとの共同作業を再開し「聖母子と聖人」を制作しています。この頃がマリオット・アルベルティネッリにとっては一番いい時期だったのかもしれません。
しかし、彼のいい時期はなぜか長くは続かないのです。それまで外的要因によって翻弄され続けたアルベルティネッリですが、最後は自分自身によって身を滅ぼしてしまいます。
1510 聖母とシエナのカタリナ
1512 聖母子
・1513年、マリオット・アルベルティネッリは愛人を作り、酒場に入り浸り、お金を浪費する生活を送るようになってしまいました。そのため、借金もかさみ、さらにそれも返せないという負のループに陥ります。 結局、バルトロメオとの共同作業もこの年が最後となってしまいました。
1513 Creation and Fall of Man
・1515年、マリオット・アルベルティネッリは享年41歳の若さで他界しました。
この年、親友だったアルフォンシア・オルシーニがローマから約20年ぶりにフィレンツェに帰って来ました。二人が再会できたかどうか私は知りません。でも、もう少しアルフォンシアが早く帰って来ていれば、アルベルティネッリの人生も変わっていたかもしれません。
マリオット・アルベルティネッリの借金は妻のアントニアがコツコツ返済したそうです。
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