- パルミジャニーノってだれ?
- パルミジャニーノの生涯と代表作品
- 1521 Mystic Marriage of St. Catherine(聖カタリナの秘密の結婚)
- 1522 S. Giovanni Evangelista教会のフレスコ画
- 1522 Legend of Diana and Actaeon(ディアナとアクタイオン)
- 1523 Circumcision of Jesus(主の割礼祭)
- 1523 Self-portrait in a Convex Mirror(凸面鏡の自画像)
- 1524 Portrait of Galeazzo Sanvitale
- 1524 Portrait of a Collector
- 1524 Portrait of Lorenzo Cybo
- 1526 Vision of Saint Jerome(聖ヒエロニムスの幻視)
- 1527 Conversion of St Paul(聖パウロの回心)
- 1527 Holy Family with the Infant Saint John the Baptist
- 1527-29 Madonna and Child with Saints
- 1528-30 Madonna of the Rose
- 1529 Mystic Marriage of Saint Catherine(聖カタリナの秘密の結婚)
- 1530 portrait of a young woman called Antea
- 1533 Cupid Making His Arch-min(弓を作るキューピッド)
- 1533 Turkish Slave(トルコの奴隷)
- 1534 Madonna of the Long Neck(長い首の聖母)
- 1535 Portrait of Pier Maria Rossi di San Secondo
- 1539 Portrait of Camilla Gonzaga and Her Three Sons
- 1540 Lucrezia(ルクレツィア)
パルミジャニーノってだれ?
パルミジャニーノ (Parmigianino、1503〜1540)は、マニエリスム初期に活躍したイタリア・パルマ出身の画家です。「ラファエロの再来」と言われるほどの才能の持ち主だったにも関わらず、ペストや戦争などの影響でパルマ、フィレンツェ、ローマ、ボローニャなどを転々としながら作品を制作し、最後は赤痢によって37歳の若さで死亡しました。
パルミジャニーノは、ポントルモ、ロッソと並んでマニエリスム第一世代の筆頭画家の一人です。彼は自然を凌駕する芸術を目指し、優美で洗練されたマニエリスム・スタイルを確立して後世の画家たちに多大な影響を与えました。
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さらに、彼はエッチングの技術を改良し、イタリアの印刷分野の発展に大きく貢献しました。エッチングとは、金属板を酸などの溶媒で腐食させて凹みを作る技術です。この凹みにインクを染み込ませて紙に転写すると、大量に同じ作品を作り出すことができます。
イタリアのエッチング技術の元祖はマルカントニオ・ライモンディですが、パルミジャニーノは、彼の技術を大きく発展させ、芸術の域にまで高めました。
余談ですが、ライモンディは、ラファエロと組んで、彼の作品を版画化することで財を成しました。ラファエロの死後、彼の弟子のジュリオ・ロマーノの性交体位絵画を、版画集「I modi(16の愉しみ)」として出版したのですが、「これはまたどうもいかんね・・・」という理由で逮捕投獄されています。その後、1527年のローマ劫掠で全財産を失い、行方知れずになってしまいました。「I modi」もすべて破棄されてしまい、現物は残っていません。
さらに余談ですが、活版印刷は、1445年にドイツのグーテンベルグによって発明されました。彼は、ワイン用のぶどう圧搾機を改良して、木版画のプレス機を製作し、大量印刷への道を拓きました。その後、エッチング法が開発されると、木版印刷は銅板などの金属板に取って代わられていきました。
パルミジャニーノの生涯と代表作品
パルミジャニーノ (Parmigianino、1503〜1540)は、本名をジローラモ・フランチェスコ・マリア・マッツォーラ (Girolamo Francesco Maria Mazzola)と言います。彼は、1503年にイタリアのパルマで生まれました。
パルミジャニーノが2歳の時、父親のフィリッポ・マッツォーラ(Filippo Mazzola)がペストで死亡してしまいました。そのため、マッツォーラの8人の子供達は、2人の叔父(MicheleとPier Ilario)に引き取られることになりました。
パルミジャニーノは、画家であるピエール・イラリーオ(Pier Ilario)に引き取られ、叔父の手伝いをするようになりました。
・1515年、イラリーオはパルマの教会(Chapel in San Giovanni Evangelista)の内装を手掛けました。12歳のパルミジャニーノは、作業を手伝い、内装を完成させています。
・1521年、パルマはフランス軍と神聖ローマ帝国軍の戦場となってしまいました。17歳のパルミジャニーノは、戦争を避けるため、イタリアの都市ヴィアダーナに住むいとこのもとに疎開しました。早熟のパルミジャニーノは、ヴィアダーナで2点のテンペラ画を仕上げています(17歳です!)。
1521 Mystic Marriage of St. Catherine(聖カタリナの秘密の結婚)
この作品は、「バルジの祭壇画」とも呼ばれるパルミジャーノが17歳の時のテンペラ画です。カタリナはイエスと結婚するという幻視をした聖人です。
もう一点はFrati de' Zoccoli教会のための「Saint Francis」ですがこちらは現存しません。
1522 S. Giovanni Evangelista教会のフレスコ画
・1522〜23年、19歳のパルミジャニーノは、教会(Chapels of S. Giovanni Evangelista)の依頼で2点のフレスコ画を制作しました(下図1〜2枚目)。
ちょうどこの時、この教会では、コレッジョがクーポラ(ドームのこと)とペンデンティヴ(ドームを支える三角形の部分)のフレスコ画を描いていました(下図3枚目)。
1522 Legend of Diana and Actaeon(ディアナとアクタイオン)
・1522年にはRocca Sanvitaleのフレスコ画、「ディアナとアクタイオン」も仕上げています。
鹿狩りに来たアクタイオンは、女神ディアナの沐浴シーンを目撃してしまいます。怒ったディアナはアクタイオンを鹿に変えてしまいました(下の絵ではアクタイオンの頭はすでに鹿になっています)。鹿になったアクタイオンは鹿狩りの獲物となり、殺されてしまいました。
何度聞いてもひどい話ですが、この話は多くの画家によって描かれており、特にティツィアーノの作品が有名です。
・1524年、パルミジャニーノと叔父のピエール・イラリーオは、教皇クレメンス7世から依頼をもらうために3点の作品を持ってローマを訪れました。
下の作品は、ローマに持参した3点のうちの2点です。この作品によってパルミジャニーノはローマで「ラファエロの再来」と謳われるようになりました。
1523 Circumcision of Jesus(主の割礼祭)
イエスがユダヤのしきたりに則り割礼を受けているところです。神なのに人間になるために割礼まで受けたんだぞ!というところにキリスト教的な意義があるのだそうです。
1523 Self-portrait in a Convex Mirror(凸面鏡の自画像)
単なる自画像ではなく、凸面鏡に映った自画像を描いているところが粋です。凸面鏡は、ネーデルランドの画家、ヤン・ファン・エイクが背景に使用しているので、そこから着想を得たのかもしれません。
その後、パルミジャーノは肖像画家として大変人気を博しました。以下の3点の作品は、このころの肖像画です。
1524 Portrait of Galeazzo Sanvitale
1524 Portrait of a Collector
1524 Portrait of Lorenzo Cybo
1526 Vision of Saint Jerome(聖ヒエロニムスの幻視)
・1526〜27年、ピエール・イラリーオと共にラウロの教会(church of San Salvatore in Lauro)の内装を依頼され「Vision of Saint Jerome(聖ヒエロニムスの幻視)」を作成しました。
寝ているヒエロニムスが、聖母子とヒーローのようなポーズをとっている洗礼者ヨハネの幻影を見ています。
下の作品もこの頃の代表作です。
1527 Conversion of St Paul(聖パウロの回心)
熱心なユダヤ教徒のパウロは、キリスト教徒を迫害していましたが、キリストの幻影を見て目が見えなくなってしまいました。
その後、目から鱗のようなものが落ちて目が見えるようになり、熱心なキリスト教徒になりました。このお話が「目から鱗」の語源だそうです。
ちなみに、下の絵はキリストの幻影に驚いて落馬したパウロです。一般的にパウロの回心では落馬したパウロが描かれます。
この作品では、地面が斜めになっているため、パウロの不安定感が増して、ダイナミックな印象を受けます。優雅な作品だけでなく、ダイナミックな作品も天下一品です。
1527 Holy Family with the Infant Saint John the Baptist
・1527年、暴徒と化した神聖ローマ帝国軍がローマに攻め込んできた(ローマ劫掠)ため、パルミジャニーノはローマからボローニャへと避難しました。このころの代表作は以下の3点です。
1527-29 Madonna and Child with Saints
1528-30 Madonna of the Rose
1529 Mystic Marriage of Saint Catherine(聖カタリナの秘密の結婚)
17歳の時の作品と比較してみてください。2枚とも黄色い服の女性がカタリナです。
・1530年、ボローニャを去り、生まれ故郷のパルマに戻りました。
・1531年、パルミジャニーノはパルマの教会(Church of Santa Maria della Steccata)から2点の祭壇画「ナザレのヨセフ(ヨセフはマリアの婚約者でイエスの義父です)」と「洗礼者ヨハネ」の依頼を受けました。
パルミジャニーノには祭壇画制作のために給与が支払われていました。しかしながら、待てど暮らせど祭壇画は完成しませんでした。
実はこの頃、パルミジャニーノは、エッチングに使う薬品を作り出そうと錬金術にはまっていたのです。そのため、彼は教会から依頼された仕事をほっぽらかしにしてしまいました。
1530 portrait of a young woman called Antea
1533 Cupid Making His Arch-min(弓を作るキューピッド)
1533 Turkish Slave(トルコの奴隷)
タイトルは「トルコの奴隷」ですが、実際には乳母のようです。頭にかぶっているターバン様の帽子が誤解を生み、後につけられたタイトルが内容と全く関係のない「トルコの奴隷」になってしまいました。どう見ても奴隷には見えませんけどね。
1534 Madonna of the Long Neck(長い首の聖母)
マニエリスム絵画の最高傑作と言われる一枚です。首の長い聖母に、やたらと巨大なイエスが特徴の本作品は、自然を凌駕する優美さを持っていると高く評価されています。・・・が、巨大なイエスはSFかオカルト映画に出てきそうで不気味です。
右下にちっちゃなヒエロニムスがいます。これは、依頼主の注文だそうです。
1535 Portrait of Pier Maria Rossi di San Secondo
・1539年、結局、パルマの教会から依頼された2点の祭壇画は完成せず、彼は解雇されてしまいました。教会も気が長いですね、全く進展がないのに9年間も雇用していたなんて・・・。
パルミジャニーノの後任としてラファエロの一番弟子だったジュリオ・ロマーノが起用されました。しかし、ロマーノもすぐに解雇されています。ロマーノもゴンザーガ家に雇われて忙しい毎日を送っていたので仕方ありません。
1539 Portrait of Camilla Gonzaga and Her Three Sons
1540 Lucrezia(ルクレツィア)
・1540年、パルミジャニーノは赤痢で死亡しました。37歳でした。下は生涯最後の作品「Lucrezia(ルクレツィア)」です。
ルクレツィアは、紀元前6世紀にローマの王子セクストゥスの強姦され、自殺した女性です。このことが切っ掛けで反乱が起き、ローマから王家は追放されて共和制になったと言われています。
この作品では、ルクレツィアが強姦されたあと、短剣を胸にさして自害する瞬間を描いています。