新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

ヤコポ・ダ・ポントルモの生涯と作品 マニエリスム最初の画家ポントルモの世界

 

 

 ヤコポ・ダ・ポントルモはルネサンス様式を打破し、マニエリスム絵画を世に送り出した天才です。しかし、死後400年近く忘れ去られ、正当に評価されませんでした。本項は、日本でもあまり知られていないポントルモの知名度の上昇にほんのちょっとでも貢献できたら嬉しいな、と思って書きました。

 

 

ヤコポ・ダ・ポントルモってだれ?

 

 ヤコポ・ダ・ポントルモ(Jacopo da Pontormo、1494〜1557)は、イタリア・フィレンツェのマニエリスム期の画家です。

 

 盛期ルネサンス最後の画家であるアンドレア・デル・サルトの工房の出身で、同門のロッソとともにマニエリスムの最初の画家となりました。

 

 マニエリスムとは、特定の様式を指すのではなく、ルネサンス様式からはみ出した16世紀の作品の総称です。当時の画家たちは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロによって完成されたルネサンス様式から抜け出そうと試行錯誤を繰り返していました。

 

 

 ポントルモは、古典的なルネサンス様式から抜け出すため、一人で悩み抜きました。もともと神経質で内向的な性格だったようですが、他人に意見されないように、作品は外部から見えないようにシートで覆って作業するなど、どんどんと孤立した芸術家になって行きました。

 

 

 ポントルモの作品の特徴は、宙に浮かび、ねじれたようなポーズをとる人物、曖昧な遠近法によるフラットな画面、簡素で幾何学的な建物群、作品の上方にまで配置された人の群などです。

 

    下の絵は一見ふつうに見えます。しかし、マリアたちを左の建物と比較すると、遠近法が曖昧なため、彼女たちがすごく巨大に見えてしまいます(左下に小人のような人物もいます)。

 

 

 

 彼の作品は、まるで近代の表現主義の作品のようです。天才ポントルモは、たった一人で数百年の時代を飛び越えてしまったように見えます。

 

 さらに、驚くのは、彼の先進的な作品がその時代に受け入れられていたことです。ポントルモは、メディチ家など強力なパトロンを持ち、フィレンツェの筆頭画家として生涯に400点を超える作品を制作しました。

 

 

 

天才ヤコポ・ダ・ポントルモの生涯と作品

 

 ヤコポ・ダ・ポントルモ(Jacopo da Pontormo、1494〜1557)は、イタリアのポントルメで生まれました。父親はバルトロメオ・ディ・ヤコポ・ディ・マルティーノ・カルッチ、母親はアレッサンドラ・ディ・パスカレ・ディ・ザノービです。

 

 父は、画家でギルランダイオの工房で働いていました。ポントルモはミケランジェロから多大な影響を受けていますが、ミケランジェロも彼の父親と同じくギルランダイオ工房の出身です。

 

・1499年、父親が死亡、1504年に母親も死亡し、10歳で孤児になってしまいました。

 

 彼は、メディチ家の宮廷画家ベルナルド・ヴェットーリ(Bernardo Vettori)によってダ・ヴィンチのところに送られました。その後、マリオット・アルベルティネッリ、ピエロ・ディ・コジモの工房を経て、1512年、最終的にアンドレア・デル・サルトの工房に弟子入りしました。

 

1514-16 Visitazione(聖母マリアのエリザベト訪問)

 「聖母マリアのエリザベト訪問」は、ポントルモが20歳くらいの頃の作品です。この作品ではまだルネサンス様式を踏襲しています(背景の建物もきちんと描き込み、人物も画面の半分より下に配置しています)。ちなみに、エリザベトは洗礼者ヨハネのお母さんです。

 

 

1515 Veronica(聖ヴェロニカ)

 聖ヴェロニカは、ゴルゴダの丘に向かうイエスに、汗を拭うようにと自分のショールを差し出しました。その後、イエスが汗を拭ったショールには、イエスの顔が浮かび上がりました。彼女にとっては思わずクリーニング代を請求したくなるような出来事だっただろうと思います。

 

 

 1515年、ポントルモは旧約聖書の創世記に出てくるヨセフの物語をモチーフにしたフレスコ画をボルゲリーニ宮殿に描きました。このフレスコ画には、幾何学模様のように単純化された建造物、画面上方に配置された人物群など、ルネサンス様式からの逸脱がみられるようになりました。

 

1515 Giuseppe venduto a Putifarre(ポティファルに売られたヨセフ)

 ヨセフは父親のヤコブに贔屓されていたため、兄たちから妬まれ、エジプト王(ファラオ)の侍従長ポティファルに売られてしまいました。

 

 

1515 Supplizio del fornaio(料理長の苦悩)

 ポティファルの妻の罠にかかったヤコブは投獄されてしまいます。しかし、看守長と仲良くなり、看守となりました。そこへ、ファラオの料理長が投獄されてきました。

 

 ある夜、料理長は夢をみました。ヨセフが夢を解読したところ、ヨセフの言った通りのことが起こったため、彼はその能力を買われてエジプトの宰相になりました。

 

 

1518 Giuseppe in Egitto(エジプトのヨセフ)

 宰相となったヨセフは飢饉に備えて食料を備蓄するなど、万端怠りの無い政治を行いました。その後、エジプトを7年間続く大飢饉が襲います。

 

 

1515 Giuseppe riceve richieste d'aiuto dai fratelli(兄弟を助けるヨセフ)

 飢饉はヨセフの生まれ故郷にまで及びました。ヨセフの兄弟たちはエジプトに食べ物を乞いにきました。それを見たヨセフは彼らを許し、食べ物を与えました。

 

 

1518 Pala Pucci

 

 

1519–20 Vertumnus and Pomona(ウェルトゥムヌスとポモナ)

 ポントルモはポッジョ・ア・カイアーノ(Poggio a Caiano)にあるメディチ宮のフレスコ画を制作しました。このフレスコ画は、ローマのオウイディウスの変身物語の中の「ウェルトゥムヌスとポモナ(Vertumnus and Pomona)」をモチーフにしています。ウェルトゥムヌスは果樹と果実の神で、老人に姿を変えてポモナを狙っています。

 

 この作品の牧歌的な田園風景はルネサンス様式には見られないものです。

 

 

 

 

 

1522年、ペストがフィレンツェを襲いました。ポントルモはフィレンツェの修道院Certosa di Galluzzoに避難しました。

 

 

1522-23 Adorazione dei Magi(マギの礼拝)

 

 

1522-24 Sacra Famiglia con san Giovannino(洗礼者ヨハネと聖家族)

 

 

1523-25 Cristo davanti a Pilato(ピラトの前のキリスト)

 この作品はキリストの生涯を描いた3枚のフレスコ画の1枚です。この作品は3枚ともかなり傷んでいます。彼のフレスコ画は多くが破壊されてしまっており、現存するものは極めて少なくなっています。

 

 

1525 Cena in Emmaus(エマオの晩餐)

 エマオは復活したキリストが弟子たちと夕食を共にした場所(地名)です。食事中に弟子たちがキリストに気がつくと彼は消えてしまいました。

 

 

1525-28 The Deposition from the Cross(キリストの降架)

 Santa Felicita教会のカッポニ(Capponi)礼拝堂の祭壇画でポントルモのマニエリスムの代表作品です。

 

 「キリストの十字架降架」は、人気のモチーフなのでルネサンス期にも散々描かれています。この作品がマニエリスムだと言われる所以は、十字架が描かれていない、後方の人物の足が地面についていない、遠近法を使わないフラットな画面構成、マリアとキリストの間に距離があり、不思議な空間が生まれている、などです。

 

 この作品はミケランジェロのピエタを参考にしたのではないかと言われています。ちなみに右端からこちらを見ている男性はポントルモ自身です。

 

 

 

 

1526 Natività di san Giovanni Battist(洗礼者ヨハネの降誕)

 

 

1527-28 Annunciazione(受胎告知)

 

 

1528-30 Visitazione di Carmignano(カルミニャーノの訪問)

 

 

1528-29 Madonna col Bambino, sant'Anna e quattro santi(聖母子と聖アンナと聖人)

 

 

・1529年、彼は工房つきの家を購入しました。寝室のハシゴを上がると仕事部屋があり、彼は一人こもって絵を描き続けました。

 

1529-1530 Ten Thousand Martyrs (1万人の殉教)

 この作品は、アララト山で行われた1万人のクリスチャン兵士の伝説の殉教を描いています。

 

 

 

1534-36 Madonna col Bambino e san Giovannino(洗礼者ヨハネと聖母子)

 

 

・1536年からの5年間は、再びポッジョ・ア・カイアーノにあるメディチ宮のフレスコ画を描いています。

 

1540-45 Madonna del Libro(リブロのマドンナ)

 

 

・1546年、メディチ家のサン・ロレンツォ(San Lorenzo)教会に「最後の審判」などのフレスコ画を10年に渡って描きました。しかし、残念なことにこちらは現存していません(ポントルモのマニエリスムの特徴を備えた習作だけが残されています)。

 

 

 

・1557年、ポントルモは死去し、サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂の サン・ルカ礼拝堂に埋葬されました。 師匠のアンドレア・デル・サルトが埋葬されている教会です(二人はあまりうまくいっていませんでしたが・・・)。

 

 

/*トップに戻るボタン*/