- ロッソ・フィオレンティーノってだれ?
- ロッソ・フィオレンティーノの生涯と代表作品
- 1513 アンヌンツィアータ教会のフレスコ画
- 1518 Pala dello Spedalingo(聖母子と四人の聖人)
- 1521 Deposizione dalla Croce(十字架降架)
- 1522 Moses defending the Daughters of Jethro(エトロの娘たちを守るモーセ)
- 1522 Madonna and Child with Putti(聖母子と天使たち)
- 1522 Allegoria della Salvezza (救済の寓意)
- 1522 Madonna Enthroned and Ten Saints(玉座の聖母と十人の聖人)
- 1523 Pala Ginori(聖母の結婚)
- 1525 Cristo morto compianto da quattro angeli(死せるキリストと天使たち)
- 1525 Dying Cleopatra(死にゆくクレオパトラ)
- 1527 Deposizione di Sansepolcro(十字架降架)
- 1528 Risen Christ(キリストの復活)
- 1535 Bacco, Venere e Amore(バッカスとヴィーナス)
ロッソ・フィオレンティーノってだれ?
ロッソ・フィオレンティーノ(Rosso Fiorentino、1494〜1540)は、イタリア・マニエリスム期(1520年代〜1600年ころ)の画家です。同じくイタリアの画家であるヤコポ・ダ・ポントルモ(Jacopo da Pontormo、1494〜1557)の影響を受けて、ルネサンス様式から抜け出す新たな画風を模索しました。
ロッソやポントルモの作品のようにルネサンス様式から逸脱した絵画を「マニエリスム」と言います。マニエリスム絵画の特徴は、ねじれたようなポーズ、間延びした骨格、不自然な遠近法や陰影表現などです。
ロッソは30歳半ばでフランスに呼ばれて宮廷画家になりました。その結果、マニエリスムは、イタリア国内のみならず、フランスでも広まり、フランス芸術の礎となりました。ロッソはフランスのフォンテンブローで活躍したため、彼にはじまる芸術様式を「フォンテンブロー派」と言います。
ロッソはマニエリスムをはじめた画家の一人であるとともに、フォンテンブロー派の創始者としてフランス芸術の礎を作ったとても重要な画家なのです。
ロッソ・フィオレンティーノの生涯と代表作品
ロッソ・フィオレンティーノ(Rosso Fiorentino、1494〜1540)は、本名をジョヴァンニ・バッティスタ・ディ・ヤコポ(Giovanni Battista di Jacopo)と言います。
・1494年、ロッソはイタリアのフィレンツェで生まれました。彼は赤毛だったため、「ロッソ・フィオレンティーノ(赤いフィレンツェ人)」と呼ばれるようになりました。
ロッソは、頑固で反抗的な性格だったため、幼少期には絵の訓練を受けていません。17歳になって初めてアンドレア・デル・サルトの工房に弟子入りしました。デル・サルトは、ルネサンス期最後の画家で、当時、フィレンツェではトップ画家の一人です。彼はルネサンス様式の完成者の一人にも数えられています。
ロッソは、デル・サルトの工房でヤコポ・ダ・ポントルモと同僚となりました。デル・サルトは、様式に厳格でしたが、反抗的なポントルモとロッソは、師匠の様式からはみ出した絵を描くようになりました。ちなみに、下の絵はポントルモの代表作です。
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1513 アンヌンツィアータ教会のフレスコ画
・1513年、デル・サルトの工房は、サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会(Basilica della Santissima Annunziata di Firenze)のフレスコ画を依頼され、ロッソは1点を担当しています。
1518 Pala dello Spedalingo(聖母子と四人の聖人)
・1518年、聖母子と四人の聖人の祭壇画を製作しましたが、 険悪な感じの人物たちを見た教会側から受け取りを拒否されてしまいました。確かにみんな悪人っぽいですよね。
1521 Deposizione dalla Croce(十字架降架)
・1521年、この出来事の後、ロッソはフィレンツェを去り、ヴォルテッラへと向かいました。そこで彼は、代表作の「Deposition(十字架降架)」を制作しています。極めて独特で不安定なな構図のこの作品は、マニエリスムの代表作にもなっています。
1522 Moses defending the Daughters of Jethro(エトロの娘たちを守るモーセ)
・1522年、フィレンツェに戻ったロッソは、翌年にかけて「Moses Defending the Daughters of Jethro(エトロの娘たちを守るモーセ)」を制作しています。
モーセはエジプトにいる時に、イスラエルの民を奴隷として鞭打つエジプト人に腹を立て、殺してしまいました。そのため、エジプトから逃亡せざるを得なくなります。
逃避行の途中、モーセは羊に水を飲ませようとしている娘を見つけました。すると、そこへ男たちがやって来て彼女の邪魔を始めました。
モーセは、男たちを追い払い、彼女を助けてあげました。モーセの助けた父親の名はエトロといい、モーゼに娘の一人ツィポラを妻として与えました。
下の絵では、モーセ(中心で暴力を振るっている男)が男たちをボコボコにしています。しかもなぜかみんなハダカ。
この時期の他の作品は以下の通りです。絵のヘタクソなロッソが少しずつ上手くなっていきます。最初の祭壇画のマリアの目の周りなんかパンダのようです。目の周りを黒くするから悪相になっちゃうんですよね。でも、それも次第になくなっていきます。
1522 Madonna and Child with Putti(聖母子と天使たち)
1522 Allegoria della Salvezza (救済の寓意)
1522 Madonna Enthroned and Ten Saints(玉座の聖母と十人の聖人)
1523 Pala Ginori(聖母の結婚)
・1523年の終わり、29歳のロッソはローマを訪問しました。ローマで彼は、ラファエロやミケランジェロの作品に触れています。
当時、ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の天井画を完成させていました。一方、ラファエロは、ヴァチカン宮殿の「ラファエロの間」の制作途中に急死しており、未完成の「ラファエロの間」の作業を、彼の弟子たち(ジュリオ・ロマーノ(Giulio Romano)、ペリーノ・デル・ヴァーガ(Perino del Vaga)、ポリドーロ・ダ・カラヴァッジォ(Polidoro da Caravaggio))が引き継いでいました。
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ロッソと知り合った彼らの作品にもその後マニエリスムの傾向が見られるようになります。
・1524年、ラファエロの再来と謳われたイタリア・パルマ出身の21歳の新星パルミジャニーノ(Parmigianino)がローマにやって来ました。二人は互いに影響を与え合い、パルミジャニーノの作品もマニエリスム的になると同時に、ロッソの作品の傾向も変わっていきました。
1525 Cristo morto compianto da quattro angeli(死せるキリストと天使たち)
画面の中心に大きくキリストを描く大胆な構図です。今までの作品と比較すると、構図とタッチがともに洗練されて来ています。
1525 Dying Cleopatra(死にゆくクレオパトラ)
ここでちょっと当時の歴史的な背景について書いておきましょう。
ルネサンス期には、ヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(スペインと神聖ローマ帝国)がイタリアの覇権争いをしていました。
フランスはスペインと神聖ローマ帝国に挟まれ、イタリアに領土を拡大するしかありませんでした。一方、ハプスブルグ家だって黙ってヴァロワ家の好き勝手にさせるわけにはいきません。かくして両家は1400年代末以来イタリアを戦場にしていました。
・1525年、イタリアのパドヴァの戦いでフランス王フランソワ1世が神聖ローマ帝国皇帝カール5世に敗れ、捕虜となってしまいます。
・1526年、フランソワ1世が釈放されました。フランソワ1世は釈放されるとすぐにカール5世に対抗するため、イングランド、ヴェネツィア、ミラノとコニャック同盟を結成しました。
この同盟には教皇クレメンス7世(メディチ家)とフィレンツェ(メディチ家)も加わっていました。しかし、メディチ家は神聖ローマ帝国のおかげで教皇を輩出し、フィレンツェに復権できた経緯がありました。つまり神聖ローマ帝国に恩があったのです。
・1527年、メディチ家の裏切りに腹を立てたカール5世は、シャルル3世を指揮官として教皇のいるローマに進軍させました。途中でシャルル3世は戦死したもののローマは陥落、さらに指揮官を失った軍隊は暴徒と化し略奪と陵辱の限りを尽くしました。これを「ローマ劫掠」と言います。
この結果、ローマに集まっていた多くの芸術家が殺され、教会なども破壊されてローマを中心とする盛期ルネサンスの幕は閉じてしまいました。
ロッソは大勢のローマ市民とともに捕らえられ、強制労働をさせられましたが、その後解放されています。自由になったロッソは、数年間、友人の支援でイタリアの主要都市をめぐり、仕事を探す日々を送りました。
戦争の影響か、ロッソのこの時期の作品は大変暗い感じです。
1527 Deposizione di Sansepolcro(十字架降架)
1528 Risen Christ(キリストの復活)
一方、その頃フランス王フランソワ1世は、釈放以降自分の威信を回復する必要に迫られていました(捕虜になったいたなんてかなりカッコ悪いですから)。そこで、フランソワ1世は、ギルス・ル・ブレトン(Gilles le Breton)に命じてフォンテンブロー宮殿の建設を始めました。
フォンテンブローは、パリから南東55キロの所にあり、宮殿はもともと狩猟の拠点として使われていた建物でした。フランソワ1世は、イタリアから戦乱のために食いっぱぐれた芸術家をフォンテンブローのに招聘しました。
・1528年、フランソワ1世は フォンテンブロー宮殿の居住区から教会までを結ぶ回廊の建設をイタリアから招いた建築家セバスティアーノ・セルリオ(Sebastiano Serlio)に命じました。これを「フランソワ1世の回廊」と言います。
・1530年、フランソワ1世は、ヴェネチアでくすぶっていたロッソをフォンテンブローへと招き、回廊の装飾を任せました。ロッソは、1533年から39年までこの仕事に携わっています。お陰でフランソワ1世の回廊は、フランス初の本格的なギャラリーとなりました。
フランソワ1世は、回廊の装飾のみならず、コスチュームや景観から絵画、彫刻、テーブル・ウェアに至るまで、宮廷内の芸術やデザインのすべてをロッソに一任しました。
・1532年、イタリア・ボローニャから来た画家フランチェスコ・プリマティッチオ(Francesco Primaticcio)がフォンテンブローに参加しました。ロッソとプリマティッチオのスタイルは後にフォンテンブロー派として知られるようになりました。
1535 Bacco, Venere e Amore(バッカスとヴィーナス)
ロッソは、フランス市民権を与えられ、豪華な邸宅に住み、良い給料をもって召使いがいる生活を送っていました。
・1540年、フランスで有名となり金持ちとなったロッソは、絶頂期に突然死亡してしまいました。原因は友人との諍いによる自殺だと言われています。享年45歳でした。
フォンテンブロー宮殿の装飾は住人が変わるたびに入れ替えられて来たので、ロッソの作品は、フランソワ1世の回廊以外はほとんど残っていません。
ロッソの死の数年後、フォンテンブロー内に版画の工房ができました。その結果、彼らの作品は版画としてフランス全土に広く知られ、影響を与えるようになりました。
ロッソの死後、プリマティッチオがフォンテンブロー宮殿の芸術に関してイニシアティブをとり、イタリアのモデナから画家のニコロ・デッラバーテ(Niccolò dell'Abbateg)を招聘しました。
ロッソ、プリマティッチオ、デッラバーテの三人は、フランス宮廷芸術の基礎を築き、初期の「フォンテンブロー派」と呼ばれるようになりました。