前期ルネサンス(1300〜1400年)要約
前期ルネサンスとは、1300年から300年続いたイタリアのルネサンス時代の最初の100年間を指します。
1300年頃、イタリアのフィレンツェでは、写実性とヒューマニズムを重んじる「ルネサンス様式」が始まりました。同じ頃、イタリアのシエナでは、イタリア独自のゴシック様式(イタロ・ゴシック)が発展していました。イタロ・ゴシックはその後「国際ゴシック様式」となり、もてはやされますが、15世紀になるとルネサンス様式の人気に押され、衰退していきました。
フィレンツェからルネサンスへ
13世紀のイタリア絵画は、クリスチャン・ビザンティン様式の流れを汲むゴシック(イタロ(Italo)ゴシック / イタロ・ビザンティン)が主流でした。ビザンティン美術とは、古代ギリシア・ローマの美術を継承し、取り込んだ美術体系であり、5〜10世紀に東ローマ帝国で発達しました。
当時、画家のコミッションのほとんどは宗教画であり、巨大な祭壇画なども制作されていました。この頃の絵画は古代のイコンのスタイルを踏襲し、その形式がディテールまで厳密に決められていました。
このころのイタリアでは、フィレンツェやシエナなど複数の自治都市が繁栄し始めていました。ルネサンスの美術史家ヴァザーリによれば、絵画ルネサンスの先鞭を切ったのは、フィレンツェの画家ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone 1267〜1337)(下図)です。その後、前期ルネサンス期の絵画はフィレンツェとシエナを軸に発展していきます。
羊飼いの少年であったジョット少年は、フィレンツェの画家チマブーエ(Cimabue 1240〜1302)に弟子入りし、時代を大きく変革する画家へと成長を遂げていきます。ヴァザーリによれば、ジョットの羊の絵を見たチマブーエが、ジョットの父に頼み込み弟子にしたことになっていますが、実際にはジョットがチマブーエの弟子だったという確証はありません。
・1280年、ジョットの所属するチマブーエの工房は、アッシジの聖フランチェスコ聖堂のフレスコ画を制作したと考えられています(下図)。
この制作にはジョットとともにローマ出身の画家ピエトロ・カヴァリーニ(Pietro Cavallini, 1250〜1330)も参加していました。ジョットの写実的な絵画は、同門であるピエトロ・カヴァリーニの影響が大きいと考えられています。
・1293年、カヴァリーニは、装飾性と立体感が融合した傑作「最後の審判」(下図)をサンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ教会に描いています。
下図は1枚目が正面、2枚目がキリストに向かって左壁面、3枚目が右壁面のフレスコ画です。人物の顔は一人一人異なり、衣服の表現も写実的です。
・1305年、ジョットは、彼の代表作であるスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画を完成させます(下図)。実際には、確実にジョットの作品であると判明しているのはこのフレスコ画だけです。この作品によってジョットは、「ルネサンスの開祖」で「西洋絵画の父」であると言われるようになりました。
現在、聖フランチェスコ聖堂とスクロヴェーニ礼拝堂はルネサンスの幕開けを担った教会として知られています。
先述のチマブーエの作品と比較すれば明らかなように、ジョットの絵画の特徴は、遠近法を用いた建物、地に足のついた立体的で情感豊かな人物たち、着衣の質感などにあり、彼の自然を手本にした表現は同世代の画家の作品から際立っていました。
ジョットはルネサンスの先駆けとなり、多くの同世代とそれに続く画家たちに影響を与えました。ジョットと彼に続く自然主義の画家たちを「フィレンツェ派」と呼びます。フィレンツェ派は、後にボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠を生み出しました。
シエナから国際ゴシックへ
同じ頃、イタリアの自治都市シエナでは、同じくチマブーエの弟子(絵画様式からの推測であり確証はありません)のドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(Duccio di Buoninsegna 1255 - 1319)がゴシック様式の絵画をリードしていました。彼と彼に続く画家たちは「シエナ派」と呼ばれています。当時はフィレンツェとシエナは仲が悪く、何かにつけて対立していました。
ドゥッチョの代表作品はサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の「Rucellai Madonna」(下図1枚目)、シエナ大聖堂の祭壇画として描かれた「Maesta」(下図2枚目)、現在メトロポリタン・ミュージアムにある「聖母子像」などがあります。
その後、シエナ派は、フィレンツェ派のルネサンスの手法を吸収しつつ、独自のゴシック様式を発展させていきました。シエナのゴシック様式の特徴は、大変細やかな描写と豊かで美しい色使いにあります。
・1309年、フランス王フィリップ4世によって教皇庁がローマから無理やり南仏のアヴィニョンへと移転されてしまいました。この事件を「アヴィニョン捕囚」と言います。アヴィニョンはこの後、教皇の後ろ盾によって新たな芸術拠点となっていきます。
教皇と皇帝は長年権力闘争を繰り返していましたが、度重なる十字軍遠征の失敗などで教皇側は疲弊していました。皇帝による「アヴィニョン捕囚」には、フランス領下に教皇を置くことによって、皇帝の権力をアピールし、さらに、お膝元で教皇を監視するという二つの目的がありました。
教皇の権力が衰退したとは言え、そこはキリスト教中心の世界、教皇にはまだまだ唸るほどお金があります。教皇庁がフランスのアヴィニョンに移ると、新教皇庁の建設のために各国から多くの芸術家が集められました。さらに、アヴィニョンは富の集中によって、新たな芸術の拠点となっていきました。
・1315年、ドゥッチョの弟子のシモーネ・マルティーニ(Simone Martini 1284 - 1344)は、シエナ市庁舎のフレスコ画「Maesta」(1枚目)を完成させ、さらにアッシジ・聖フランチェスコ教会のフレスコ画(2枚目)を制作しました。
ちなみに、聖フランチェスコ教会のフレスコ画は、チマブーエやジョットをはじめ、前期ルネサンスのスターたちの作品が揃っています。なんとも贅沢な教会です。
・1340年、シモーネ・マルティーニは教皇によってアヴィニョンに招かれ、教皇庁新宮殿建設の仕事に携わるようになりました。
マルティーニは、アヴィニョンでシエナ派のゴシックにフィレンツィのルネサンス様式を取り込んで、新たなゴシック様式を発展させました。この様式は、その後、ゴージャスな宮廷ゴシック様式として各国でもてはやされ、「国際ゴシック様式」と呼ばれるようになります。
国際ゴシックの特徴は、装飾的で豊かな色彩を持ち、洗練された宮廷様式にあります。下図はマルティーニの作品です。繊細かつゴージャスですね。
その後、国際ゴシック様式はジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano 1360 - 1427)やフラ・アンジェリコ(Fra Angelico 1390 - 1455)らによって隆盛を極めますが、15世紀には衰退してルネサンス様式に主役の座を譲ることになりました。
・1377年、メディチ家のジョバンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチがフィレンツェにメディチ銀行を設立し、その後、ヨーロッパ各地に支店を設けて地位を磐石なものとしました。この富を基盤としてメディチ家は、芸術の強力なパトロンとなり、ジョバンニの息子、コジモ・デ・メディチで頂点を迎えます。
前期ルネサンスの主要画家一覧
前期ルネサンスに属する、上記以外の代表的な画家は以下の通りです。以下の画家たちの説明と代表作はこちら。
フィレンツェ派(ルネサンス様式)
・マーゾ・ディ・バンコ(Maso di Banco, ? 〜1348)
・タッデオ・ガッディ(Taddeo Gaddi, 1300〜1366)
・オルカーニャ(Orcagna/Andrea di Cione di Arcangelo 1308〜1368)
・フランチェスコ・トライニ(Francesco Traini 活動時期:1321〜1336)
・アルティキエーロ(Altichiero da Verona 1330〜1390)
・アンドレア・ボナイウート(Andrea Bounaiuti 1346〜1379)
シエナ派(国際ゴシック様式)
・アンブロージョ・ロレンツェッティ(Ambrogio Lorenzetti 1290〜1348)
・タッデオ・ディ・バルトーロ(Taddeo di Bartolo 1363〜1422)
・サセッタ(Sassetta / Stefano di Giovanni 1392〜1450)
・ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano 1360〜1427)
・フラ・アンジェリコ(Fra' Angelico / Beato Angelico 1390〜1455)