新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯と代表作品まとめ 16世紀ルネサンスの巨匠と絵画の入門編

 

 

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)ってだれ?

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci/Lionardo di ser Piero da Vinci、1452〜1519)は、16世紀のルネサンス期に活動したイタリアの画家、彫刻家、建築家、技師(軍事、土木、治水)、発明家です。

 

  

 彼は絵画、彫刻、演出、建築、解剖、軍事、土木などあらゆる分野で活躍し、「ルネサンス型万能人」と称されます。が、実は、実績を見ると「万能」というほどではありません。

 

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 ダ・ヴィンチは画家として有名ですが、絵画作品は20点ほどしかありません。さらに多くの作品で真贋が問われています。

 

 彫刻に関しては4回ほど制作を試みたものの、戦争や依頼主の死亡などでボツになり、完成したのはフランソワ1世のために作った小さな作品1点だけです。

 

  

 建築もデザインが主であり、目立った功績はありません。土木に関しては、治水を得意とし、運河の計画を立てています。しかし、当時の技術では不可能で近年作られました。

 

 軍事に関しては、飛行機や戦車などを設計していますが、当時は動力源がなかったため製作されませんでした。一方、ダ・ヴィンチは、史上初めて詳細な地図(下図3枚目)を作成し、「地図の父」の一人に数えられています。

 

 

 

 

 彼は多くの発明や研究をノートに残しており、これらは「Codex(手稿)」と呼ばれています。彼のスケッチの中でも、生涯に30体の遺体を解剖して観察結果を描きためたAnatomical Manuscript AとBは、世界初の正確な解剖図として有名です。世界で初めて「動脈硬化」に気づいたのもダ・ヴィンチです。

 

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レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)の生涯と代表作品

 

 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)は、フィレンツェ共和国(イタリア)・トスカーナのヴィンチ村近くのアンキアーノで生まれました。

 

 父親は裕福な公証人で、母親は小作農の娘でした。二人は結婚していなかったため、レオナルドはアンキアーノ村で母親と暮らしていました。その後レオナルドが5歳の時に母が職人と結婚したため、レオナルドは父親に引き取られ、ヴィンチ村に住むことになりました。

 

 その頃、父親はアルビエラ・アマドーリと言う名の16歳の娘と結婚していました。二人には子供がいなかったため、アルビエラはレオナルドを我が子のように可愛がりましたが、ダヴィンチが13歳の時に死んでしまいます。

 

 1466年頃、14歳になったダ・ヴィンチは、当時フィレンツェで最大級のアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に弟子入りしました。当時のヴェロッキオの工房にはピエトロ・ペルジーノ、ドメニコ・ギルランダイオなどの優秀な弟子が大勢いました。

 

 20歳のダ・ヴィンチは、師匠のヴェロッキオと共に「キリストの洗礼」「受胎告知」を制作しました。

 

 

 

 美術評論家のヴァザーリによれば、ダ・ヴィンチの出来栄えを見たヴェロッキオは絵筆を折り、二度と絵を描かなかったそうですが、実際にはその後もヴェロッキオは絵画制作を続けています。

 

    ダ・ヴィンチはこのころ同性愛で訴えられています。証拠不十分で無罪になりましたが、生涯浮いた噂もなく、結婚もしていないため、本当に同性愛だったのではないかと言われています。

 

 26歳のダ・ヴィンチは、ヴェロッキオから独立して最初の作品となる「ブノアの聖母(The Benois Madonna )」「カーネーションを持つ聖母(The Madonna of the Carnation)」を制作しています。

 

 

 

 1482年、30歳のダ・ヴィンチは、ミラノを統治しているルドヴィーコ・スフォルツァ(Ludovico Sforza)の要請でミラノに渡り、スフォルツァ家の宮廷画家兼技術者となりました。彼は、絵画、彫刻から軍事デザインや舞台演出まで担当し、その後17年間ミラノで活躍することになります。

 

 ミラノ時代の代表作は、ルドヴィーコ公の依頼でサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁に描いた「最後の晩餐」(1495〜1498)です。

 

 

 そのほか、ミラノでは「リッタの聖母(Litta Madonna / Madonna Litta)」、「岩窟の聖母」、「 白貂を抱く貴婦人(Lady with an Ermine)」、「 ミラノの貴婦人の肖像(La belle ferronniere)」、「美しき姫君(LaBella Principessa / Bianca Sforzaの肖像)」、「 糸車の聖母(Madonna of the Yarnwinder)」、「聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ」を描いています(下図はこの順番通り)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、「岩窟の聖母」、「白貂を抱く貴婦人」、「聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ」以外はダヴィンチの作品ではないとする専門家もおり、見解は分かれています。

 

 また、有名な「ウィトルウィウス人体図」描いたのもミラノ時代です。さらに、数学者のルカ・パッチョーリが執筆した「Dedivina proportione」に60枚の挿絵を描いています。

 

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 1500年、ミラノにフランス軍が攻め込んできて戦場になったため、40代後半になったダ・ヴィンチはフィレンツェに帰りました。

 

 フィレンツェでの代表作は「モナ・リザ」「アンギアーリの戦い」です。「アンギアーリの戦い」は、フィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)の5百人広間の壁画として制作が始まったものの、下絵で放置されてしまいました。

 

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 そのほかに、最近絵画史上最高値で落札された「サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi )」、「聖アンナと聖母子(Madonna and Saint Anne)」、現存しない「レダと白鳥」などをフィレンツェで制作しています。現存の「レダと白鳥」は弟子による模写です。

 

 

 

 

 1506年、50歳を過ぎたダ・ヴィンチは再度ミラノに拠点を移しています。この頃から精力的に解剖を行うようになりました。

 

 また、自画像(このページの一番最初の絵)を描いたのもこの時期です。しかし、この自画像は50代には見えません。一説ではダ・ヴィンチ本人ではなく、ダ・ヴィンチの80代の叔父を描いたものではないかと言われています。

 

 その後、1513年には仕事を求めてローマに移りました。この頃の代表作は「洗礼者ヨハネ(St.John the Baptist)」です。しかしながら、ローマでもミケランジェロラファエロなどの若手の台頭で仕事からあぶれてしまいました。

 

 

 1516年、傷心のダ・ヴィンチは、フランス王フランソワ1世の招きでイタリアを捨て、フランスへと移住しました。64歳でした。

 

 1519年、67歳のレオナルドはフランスで息を引き取りました。ヴァザーリによれば、レオナルドはフランソワ1世の腕の中で死んだことになっています。

 

 

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