新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

ミケランジェロの生涯と代表作品まとめ 16世紀ルネサンスの天才彫刻家の入門編

 

 

ミケランジェロ(1475〜1564)ってだれ?

 

 ミケランジェロは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンティと並んでルネサンスの三大巨匠の一人です。88歳と長寿で、彫刻、建築、絵画において偉大な業績を残しています。

 

 

 代表作として、システィーナ礼拝堂のフレスコ画「ピエタ」、「ダヴィデ像」などの彫刻があるため、ミケランジェロは画家、彫刻家として有名です。 しかし、現存するパネル絵は3枚のみ(完成品はわずか1点のみ)、さらに、彫刻も意外と少ないのです。

 

 下図は唯一の完成品「聖家族」とそのほかのパネル絵です。4枚目の「レダと白鳥」は現存しません。

 

1497 聖母子と洗礼者ヨハネと天使たち(マンチェスターの聖母)

 

 

1500 The Entombment (or Christ being carried to his Tomb)

 

 

1507 聖家族 (Doni Tondo)

 

 

レダと白鳥

 

 

 一方、あまり知られていませんが、彼は数多くの建築デザインを手がけています。もし、ミケランジェロの名刺を作るとすれば、「建築デザイナー・彫刻家 兼 画家」という感じでしょう。

 

 ミケランジェロの作品数が少ない一因は、その性格にあるかもしれません。ミケランジェロは、気むづかしく、陰鬱で頑固な性格のため、弟子がほとんどいませんでした(画家で史上初の美術史家と言われるジョルジョ・ヴァザーリは数少ない弟子の一人です)。ラファエロのように50人の弟子を抱え、作品を大量生産することは彼の性分にはあっていなかったのでしょう。

 

 ミケランジェロは妻帯せず、浮いた噂もなかったので、同性愛ではないかと言われています。しかし、詩人ヴィットリア(Vittoria Colonna)の友情は、彼女が死ぬまで続きました。

  

 

ミケランジェロ(1475〜1564)の生涯と代表作品

 

 ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni、1475〜1564)は、フィレンツェ共和国のトスカーナ州アレッツォ近郊ヴァルティベリーナにあるカプレーゼという小さな街で生まれました。

   

 ミケランジェロの家は没落貴族で、かつては銀行を営んでいましたが、ミケランジェロが生まれた頃はすでに財産は全てなくなっていました。そのため、彼の父は、カプレーゼの臨時事務員をして生計を立てていました。

 

 ミケランジェロが生まれると一家はフィレンツェに引っ越しました。

 

・1481年、ミケランジェロが6歳の時に、母親が闘病の末死んでしまいました。その後、ミケランジェロは、父親の経営する大理石採石場で乳母と石工であるその夫に育てられました。

 

・1488年、13歳の時にドメニコ・ギルランダイオの工房に弟子入りしています。

 

・翌年、ミケランジェロは、ギルランダイオの最も優れた弟子としてロレンツォ・デ・メディチに紹介され、なんと弱冠14歳にしてメディチ家の主催するプラトン・アカデミーに参加するようになります。

 

1491 階段の聖母

 この頃、最初のレリーフ「階段の聖母」「ケンタウロスの戦い」を制作しています。

 

 

1492 ケンタウロスの戦い

 

 

 15歳の時、3歳年上の彫刻家ピエトロ・トッリジャーノに鼻を折られるという事件が起き、ミケランジェロの鼻は生涯曲がってしまいました。

 

1494 ロウソクを持つ天使

・1494年、St.Dominic霊廟の3体の彫像、「ロウソクを持つ天使(the angel with a candlestick)」、「St. Petronius」、「St. Proculus」を制作しました。

 

 

1494 St. Petronius

 

 

1494 St. Proculus

 

 

 同年、フィレンツェを支配していたピエロ・デ・メディチが追放され、修道士ジローラモ・サヴォナローラがフィレンツェを実質的に統治するようになりました。彼は、贅沢品や芸術品を集めて燃やすなど、過激な神権政治を行うようになります。

 

 仕事のなくなった20歳のミケランジェロは、キューピッドの像を作り、酸性土に埋めてローマ時代のものと偽り、ローマの枢機卿に高値で売りつけました。しかし、目利きの枢機卿にはすぐに贋物であることがバレてしまいました。

 

 枢機卿は、詐欺行為には腹を立てたものの、彫刻の出来に感心し、ミケランジェロをローマへ招きました。

 

1496 バッカス 

・1496年、ローマに到着したミケランジェロは、枢機卿の依頼で「バッカス像」を制作しました。しかし、バッカスが裸だったため、枢機卿に受け取ってもらうことができませんでした。

 

 

ピエタ

 この年、教皇庁のフランス人の枢機卿から「ピエタ」の制作を依頼されています。

 

 

・1498年、フィレンツェを牛耳っていたサヴォナローラに対する民衆の不満が爆発し、彼はシニョーリア広場で火あぶりになってしまいました。その後、ミケランジェロはフィレンツェに帰還しています。

 

1504 ダヴィデ像

 フィレンツェでは、レオナルド・ダ・ヴィンチらの推薦で、大聖堂の屋根を飾る彫像の制作を任されました。本来はアントニオ・ロッセリーノが制作する予定だったのですが、途中で中止され、大きな大理石が26年間も野ざらしになっていたのです。

 

・1504年、ミケランジェロの「ダヴィデ像」が完成しました。ところが、完成した6トンの彫像は、大聖堂の屋根に乗らないことが明らかになりました。

 

 このため、ダ・ヴィンチやボッティチェッリを含む専門家会議が召集されました。その結果、もともとあったドナテッロの彫刻を移設して、ダヴィデ像をヴェロッキオ宮殿の入り口に設置することになりました。

 

 

1504 カッシーナの戦い

 同年、フィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)の5百人広間の壁画の依頼受け、「カッシーナの戦い」の制作を開始しました。

 

 

 ミケランジェロの「カッシーナの戦い」の対面にはレオナルド・ダ・ヴィンチの「アンギアーリの戦い」が描かれる予定でした。さらに、もう一面の壁はフィリッピーノ・リッピに依頼されていました。

 

 しかし、「アンギアーリの戦い」も「カッシーナの戦い」もフィリッピーノ・リッピの作品も完成することはありませんでした。レオナルドはミラノへ、ミケランジェロはローマへと旅立ち、さらに、フィリッピーノは同年に死亡しています。

 

 「アンギアーリの戦い」と「カッシーナの戦い」は未完成のまま展示され、多くの画家たちが押しかけて模写をしました。

 

・1512年、ミケランジェロに執心する画家バルトロメオ・バンディネッリが合鍵を使って5百人広間に忍び込み、「カッシーナの戦い」を切り刻んで持ち帰ってしまいました。

 

1501~1504 Madonna of Bruges

・1501〜4年、「Madonna of Bruges」を制作。そのほかにシエナ大聖堂の3つの彫刻「Pius」、「St. Peter」、「St.Paul」を制作しています。

 

 

 

 

 

1505~1516 モーゼ像

・1505年、教皇ユリウス2世から霊廟の制作を依頼され、ミケランジェロはローマへと渡ります。霊廟の中心の「モーゼ像」は1516年に完成しましたが、霊廟の完成にはさらに30年かかりました。

 

    そのほかに霊廟の彫刻として「反抗する奴隷(Rebellious Slave) 」「瀕死の奴隷(Dying Slave)」の2体がよく知られています。

 

 

 

 

1508~1512 システィーナ礼拝堂天井画

・1508年、33歳の時にヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画の制作を始めました。この天井画は1512年に完成しています。

 

 天井画では、創世記の9つのエピソードが「天地創造」、「アダム・イヴと楽園追放」、「ノアの洪水」の3つのグループに分けて描かれています。

 

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1520~1531 メディチのマドンナ

 ・1520年、メディチ家からの依頼でサン・ロレンツォ大聖堂の霊安堂と聖具棟(Sagrestia Nuova )のデザインを請け負いました。この建設には20年弱の歳月が必要でした。さらに、チェペルに「メディチのマドンナ」を設置しています。下図は霊安堂とメディチのマドンナです。

 

 

 

 

1523~1571 ロレンツォ・メディチ図書館

・1523年、クレメンス7世からの依頼でロレンツォ・メディチ図書館(Laurentian Library )の設計を行いました。この図書館は1571年に完成し、バロック建築の先駆けとなりました。

 

 

1534~1541 最後の審判

・1534年、59歳の時にクレメンス7世の依頼によりシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」の制作に取り掛かりました。作品は41年に完成しています。

 

▶︎もっと詳しく! システィーナ礼拝堂のフレスコ画のすべて

 

 

    同年、ローマ盛期ルネサンスで最も重要な建築物の一つであるPlazzo Franeseの3階のコニース(天井部分の装飾)と中庭をデザインを担当しました。

 

1536~1546  Campidoglio広場

・1536〜46年、教皇パウルス3世の依頼で、Capitoline HillのCampidoglio広場のデザインと設計に携わりました。

 

 

1546 ヴァチカン・サン・ピエトロ大聖堂 

・1546年ヴァチカン・サン・ピエトロ大聖堂の改築とドームのデザインを委託されました。

 

 

1561 Porta Pia

 Porta Pia(ローマの都市壁)の再建デザインを請け負っています。壁自体はローマ時代のものですが、再建は1561年着工しています。さらに、Santa Maria Degli Angeli教会(下図2枚目)のデザインと設計も行なっています。

 

 

 

1550 Conversion of the Saint Paul / Crucification of Saint Peter

・1550年、そヴァチカンの依頼でCappella Paolinaの2つの巨大なフレスコ画、「Conversion of the Saint Paul」「Crucification of Saint Peter」を完成させています。

 

 

 

・1564年、88歳で死去、サンタ・クローチェ聖堂に葬られています。

 

 

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