新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

ヤン・ファン・エイクの生涯と代表作品(3) 初期フランドルの画家エイクの最盛期の絵画一覧

 

 

ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck 1395 - 1441)の生涯と代表作品

 

 今回はヤン・ファン・エイクがもっとも精力的でだった1430年代です。ヤンは1431年、40歳くらいで結婚し、34年に初めての子供が生まれています。ヤンの傑作のほとんどはこの時期に生み出されています。多分家族が出来たことと関係しているのでしょう。彼は、残念ながら最盛期の1441年に死亡しました。

 

 ヤン・ファン・エイクは、初期フランドル派(初期ネーデルランド派)の開祖であり、北方ルネサンスの一つであるネーデルランド・ルネサンスの最初期の画家です。彼は、徹底した観察と驚異的な写実性によって北ヨーロッパのルネサンスを牽引しました。

 

 修行時代のヤン・ファン・エイクの経歴については一切明らかになっていませんが、多くの研究者は装飾写本の制作に携わっていたのではないかと考えています。ヤン・ファン・エイクの現存する作品は20点程度です(サインのあるものを除くと本当にヤン・ファン・エイクの作品かどうか疑わしいものもあります)。

 

盛期

  

1420-1432  Ghent Altarpiece(ヘントの祭壇画)

・1432年、兄のフーベルトが未完成で残した歴史的名画「ヘントの祭壇画」が完成しました。この祭壇画について兄弟の貢献がそれぞれどのくらいあったのかが研究者の争点となっています。

 

 さらに、兄のフーベルトの作品はまったく知られていないことから、ヤンの作品の一部はフーベルトの作品なのではないかと疑っている研究者もいます。

 

 もっと疑い深い研究者はフーベルトの存在自体に疑問を投げかけています。フーベルトという画家の記録は3つほどあるそうですが、それがヤンの兄弟のフーベルトと同一人物であるとする証拠はないようです。

 

 

1432 The Fountain of Life

 こちらもヤンの1432年の作品となっていますが、サインがないために本当かどうかわかりません。ヤン・ファン・エイクの兄弟か弟子(特にペトルス・クリストゥス)の可能性も考えられています。正直言ってこの作品は「ヘントの祭壇画」よりだいぶ出来が悪い(特に衣服の表現が硬い)のでエイクの作品ではない可能性が高いと思います。

 

 ペトルス・クリストゥスは、ヤン・ファン・エイクのもっとも優秀な弟子で、ヤンの後を引き継いで初期フランドル派を牽引しました。

 

 

 

1433 Portrait of a Man in a Turban(ターバンの男の肖像)

 おそらくヤンの自画像であろうと考えられている作品です。ヤンは、この作品に初めて「ALS IK KAN(能うる限り)」というモットーを初めて書き込みました。

 

 この肖像画もヤン・ファン・エイクが開発した、モデルを斜めから見て描くthree-quarters view」を採用しています。

 

 

・1434年、最初の子供が生まれ、ヤンは公私にわたって絶頂期に入ります。

 

1434 Arnolfini Portrait(アルノルフィーニ夫妻の肖像)

 イタリア人商人ジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニとその妻を描いた作品です。衣服やシャンデリア、凸面になった鏡とそこに映る部屋の様子など、この作品の緻密さと写実性は驚嘆に値します。

 

 

 凸面鏡の上には「ヤン・ファン・エイクここにあり」というサインが入っています(下図1枚目)。どこにありかというと、凸面鏡のなかに助手と一緒に描き込まれているんです(下図2枚目)。夫妻の後ろ姿の後方にいるんですがちっちゃくってわかりにくいけど芸が細かいですね。

 

 

 

1434 Virgin and Child with Canon van der Paele(ファン・デル・パーレの聖母子)

  Joris van der Paeleの依頼で描かれたものです。中心に聖母子、両側に聖人が立ち、デル・パーレは白い衣装でひざまづいています。この時デル・パーレは病気で、死期を悟ったデル・パーレは、自身のメモリアルのためにこの作品を注文しました。

 

 

1434 Annunciation(受胎告知)

 この作品は、もともとは三連祭壇画の左パネルだったのではないかと推測されていますが、あと二枚のパネルは見つかっていません。天使がマリアに解任を告げ、彼女に天上から光が差し込みんでいます。

 

 

 

 この絵画は図象学的に大変複雑らしく、宗教的表象いまだに解かれていないようですが、何より驚嘆するのは床のタイルの文様と正面のレンズ様の窓の表現です(このレンズ状の窓はヤンのお気に入りらしく、様々な絵画で登場します。探してみてください)。

 

 

 タイル部分の模様は、一点透視図法で描かれているように見えますが、透視図法は1400年代初頭にイタリア、フィレンツェの建築家ブルネレスキが発見したものの、まだネーデルランドには伝わっていませんでした。ヤンは図法を用いずに見たままを描いたのでしょう。すごいです。

 

 ちなみに、ネーデルランドで最初に遠近法(透視図法)を用いて絵を描いたのは、彼の弟子のペトルス・クリストゥスで、1457年のことです。

 

 ヤン・ファン・エイクの描く建物はどれも実際には存在しない想像上のものだそうですが、こんな表現を想像だけでできるものでしょうか?すごすぎです。

  

1435 Madonna of Chancellor Rolin(宰相ロランの聖母)

 ブルゴーニュ公国宰相だったニコラ・ロランの依頼で描かれたもので、ロランは左端で聖母子に祈りを捧げています。

 窓の外(バルコニー?)を見てください。小人みたいなのが二人います。遠近法が中途半端なので、ちっちゃく見えていますが、おそらくヤンと弟子の後ろ姿です。一人は下を覗き込んでいます。

 

 

1436 Lucca Madonna(ルッカの聖母)

 聖母マリアのモデルは奥さんのマルガレートだと言われています。ちょっとコワモテで似ているかもしれません。ヤンの第一子は1434年に生まれているので、その子かその下の子を描いたものでしょう。

 

 

1436年、ブルゴーニュ公フィリップ3世から密命をおび、外交任務で国外へ赴いています。

 

1437 Dresden Triptych(ドレスデンの聖母)

 三連の祭壇画です。両翼を閉じると下の1枚目のようなカバー絵となります。まるでだまし絵のような立体感です。

 

 両翼を開くと下図2枚目のように中心に聖母マリアとイエスが現れます。この作品はジュスティニアニ家の依頼で、依頼主は例によって左翼にひざまづいています。

 

 

 

1438 Madonna in the Church(教会の聖母)

  この作品もサインがないために作者は不詳ですが、「アルノルフィーニ夫妻の肖像」の室内に似ているという理由で、ヤン・ファン・エイクの作品であろうと推測されています。制作年についても後期の作品ではなく、1420年前半の作品ではないか、との見解もあります。

 

 確かに、ヤン・ファン・エイクの大好きなレンズ状の窓が見当たりません。ヤンの作品ではないのか、制作年がもっと初期なのかもしれません。

 

 

 この作品では、教会の中に聖母子が立っています。一見違和感がありませんが、実はこの聖母子は超巨大なのです。マリアの頭は教会の2階部分に達していおり、計算するとその身長は5メートルを越えるそうです。

 

 この作品は、聖母を教会いっぱいに描くことによって、「教会=聖母である」という暗喩を表していると言われています。

 

1441 Madonna of Jan Vos

 この作品はJan Vosの依頼で作成した作品で、例によってVos氏は左側にひざまづいています。全体のデザインと中央の聖母子についてはヤン・ファン・エイクが描きましたが、彼が未完成のまま死亡したため、彼の工房のでしたちが1443年に完成させました。

 

 

・1441年、ヤン・ファン・エイクはブルッヘにて死去しました。最盛期に死亡したヤンは未完成の依頼品を複数抱えていたのですが、工房の運営を弟が取り仕切理、数年のうちにすべて完成させています。

 

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