新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

ヤン・ファン・エイクの生涯と代表作品(1) 初期フランドル画家の最高峰、エイクの人生と絵画一覧

 

 

ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck 1395 - 1441)概論

 

 ヤン・ファン・エイクは、ロベルト・カンピン、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンとともに初期フランドル派(初期ネーデルランド派)の開祖と見なされています。

 

 北方ルネサンスの一つであるネーデルランド・ルネサンスもヤン・ファン・エイクとともに始まりました。現存する作品は20程度 ですが、とにかくすごい画家です。下図はヤン・ファン・エイクの自画像ではないか?と言われる「赤いターバンの男の肖像」です。

 

 

 ヤン・ファン・エイクは、油彩画技術を確立して、写実的な絵画を板絵に描いた最初期の人であり、肖像画を真横からではなく、斜めから描いた最初の画家でもあります。また、大変教養が高く、数々の宗教的表象を絵画に取り入れたことでも知られています。

 

 さらに言えば、画面にサインと日付を入れた最初のネーデルランドの画家でもあります。ヤン・ファン・エイクはサインだけでなく、「ALS IK KAN」という言葉も書き入れています。英語に直せば「as I can」となり、「自らの能力の限り」という意味になります。

 

 下はヤンの代表作の一枚「Arnolfini Portrait」です。衣服やシャンデリア、凸面になった鏡とそこに映る部屋の様子など、この作品の緻密さと写実性は驚嘆ものです。

 イタリアではまだボッティチェッリだってレオナルド・ダ・ヴィンチだって生まれてさえいない時期です。信じられません。

 

 

 ネーデルランドは、「低地(low countries)」という意味で、現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルグあたりを指します(下図)。この頃、ネーデルランドは17州あり、ブルゴーニュ公が治めていました。

 

 

 ルネサンス以前の14世紀、この地域は修道院が多く、装飾写本(ミニアチュール)(下図)の制作が盛んでした。14世紀後半、装飾写本の技術が板絵に用いられるようになり、カンピン、エイク、ウェイデンらによって極めて写実的な絵画が描かれるようになりました。これが、ネーデルランド・ルネサンスの始まりです。

 

 

 イタリア・ルネサンスは、ギリシア・ローマ文化の復興を目指すことによって中世芸術からの脱却を果たしましたが、初期フランドルの画家たちによるネーデルランドのルネサンスは、中世の延長線上にあるゴシック様式に、徹底した観察と写実性を上乗せしたかたちで生まれてきました。

 

 

ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck 1395 - 1441)の生涯と代表作品

 

初期

 

 ヤン・ファン・エイクの経歴については1422年以前は記録になく、成年も含めて何もわかっていません。成年も推測です。

 

 ヤンは多分1390年ごろ、Maaseik(マースエイク)(下図)で生まれたと考えられています。ラテン語や古典にも精通していることから、十分な教育を受けていたのでしょう。

 

 

 ヤンには、少なくとも二人の男兄弟と一人の妹(マルガレータ)がいました。兄のフーベルト・ファン・エイクも、もう一人の兄弟のランベルトも画家で、協力して働いていました。

 

 ヤン・ファン・エイクがどこで修行したのかについては、まったく明らかになっていません。また、間違いなくヤンが制作したと言える初期の作品も残っていません。

 

1410-1426 The Three Marys at the Tomb

 一部の研究者は、この作品こそヤン・ファン・エイクの最初期のものではないかと考えています。しかし、反対意見も多く、兄のフーベルトの作品であると考える者もいれば、二人の共同作品であるとする研究者もいて統一見解には至っていません。

 

 

 1420 Turijn-Milaan-Getijdenboek(トリノ=ミラノ時祷書)

 多くの研究者は、装飾写本「トリノ=ミラノ時祷書」の中に現れる「Hand G(作者G)」というペンネームがヤンのものではないかと考えています。

 

 「トリノ=ミラノ時祷書」は1904年の火事で焼失してしまい、現在は写真とコピーのみです。本書は複数の画家が挿絵を描いているため、Gのサイン入りの現存ページはたったの2ページです(下2ページはGによる挿絵)。

 

 

 

 ヤン・ファン・エイクは、初期においてBruges(ブルッヘ)(下図)で活動していました。 この頃、それまで知られていた油彩画の技術に改良を加えて、現在知られているような細密な描写と鮮やかな色彩の油彩技術を確立したと言われています。

 

 

 油彩技術は、その後、イタリアにも伝わり、ルネサンスの発展に大いに貢献することとなりました。ちなみに、この頃は布製のキャンバスはまだなく、木製のパネルに油彩画を描いていました。

 キャンバスは、油彩技術が港町ヴェネツィアに伝えられたときに、豊富にある帆布に絵を描いたことに由来します。

  

1420-1432  Ghent Altarpiece(ヘントの祭壇画)

 この作品はヤンのマスターピースとされていますが、元々は、富裕な商人ヨドクス・フィエトとその夫人エリザベト・ボルルートの依頼を受けて、兄のフーベルトが1420年から制作を開始したものです。

 

 1426年、製作途中に死去した兄フーベルトの後を継ぎ、ヤン・ファン・エイクが1432年に完成させました。この多翼祭壇画は、北イタリア写実主義の最高傑作と言われています。確かに素晴らしい作品です。

 

 

 

 

 

 

 

・1422年、ヤン・ファン・エイクは、ホラント伯ヨハン・フォン・バイエルン(バイエルン公ヨハン3世 / John III the Pitiless, ruler of Holland and Hainaut)の宮廷画家となりました。

 

 ヤンは拠点をハーグ(Hague)(下図)に移し、自分の工房を構えました。また、宮廷では宮廷画家と近侍を兼務し、助手も与えられ、ビネンホフ城(Binnenhof)の装飾などに従事しました。

 

 

・1425年、バイエルン公ヨハン3世が死去するとブルゴーニュ公フィリップ3世(Philip the Good)の宮廷画家兼外交官として迎えられ、ヤン・ファン・エイクの「盛期」が始まります。

 

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