新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1) 初期フランドル派最高の画家の一人、ファン・デル・ウェイデンの人生と絵画の特徴

 

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(Rogier van der Weyden 1399/1400 - 1464)とは?

 

 ロヒール・ファン・デル・ウェイデンは、15世紀の初期フランドル派(ネーデルランド派)の画家で、ロベルト・カンピン、ヤン・ファン・エイクと並んでネーデルランド・ルネサンスを支えた3大巨匠の一人です。

 当時、彼は宮廷画家であったヤンをしのぐほどの人気でネーデルラントの富裕層や、諸外国の王侯貴族からの絵画制作依頼を受けていました。

 

 ネーデルランドは、修道院が多いことから、中世から装飾写本(ミニアチュール)の制作が盛んでした。ロベルト・カンピン(通称「フレマールの画家」)とヤン・ファン・エイクは、写本のテクニックを板絵に応用し、さらに油彩技術を確立して大変写実的で革命的な絵画を生み出しました。これがネーデルランド・ルネサンスの始まりとなります。

 

 ちなみに、ネーデルランド・ルネサンス(フランドル・ルネサンス)とは、イタリアのルネサンスから100年ほど遅れて、イタリア・ルネサンスとは独立に起こった絵画革命です。

 

 下図1枚目はロベルト・カンピン(通称「フレマールの画家」)の代表作品、2枚目は、ヤン・ファン・エイクの代表作品です。

 

 

 

 今回のロヒール・ファン・デル・ウェイデンは、ロベルトやヤンと同世代ですが、5年間ほどロベルト・カンピンの弟子だったと考えられています。

 

 当時、ロベルト・カンピンは全ギルド(職人の組合)の代表となり、トゥルネーという街(下図)の市議会を牛耳っていました。

 ファン・デル・ウェイデンは、画家としてマスターの称号を与えられた直後に、カンピンの工房のメンバーとして働き始めています。マスターであれば、自分の工房を持つのが普通ですが事情があったのでしょう(長いものには巻かれる性格だったのかも)。

 

 

 その後、ロベルト・カンピンが政治的に失脚し、愛人問題で有罪になると、32歳のファン・デル・ウェイデンは、彼の工房をやめ、ヤン・ファン・エイクの活躍するブルッヘ(下図)を拠点にしました。40歳くらいのエイクはちょうど結婚して子供ができた頃で、脂が乗り切っていました。

 

 

 ファン・デル・ウェイデンがヤン・ファン・エイクの下で働いていたという記録はありませんが、ウェイデンは、ブルッヘでヤン・ファン・エイクから多くの技術を吸収したと思われます。

  

 ロベルト・カンピンとヤン・ファン・エイクから大きな影響を受けたファン・デル・ウェイデンですが、画風には大きな違いもあります。

 

 ロベルト・カンピンとヤン・ファン・エイクの絵画は、細かいところまで描き込んであり、とても写実的ですが、人物は表情に乏しく、全体に硬質な感じです。

 

 一方、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの作品は、「静」のヤンに対して「動」のロヒールと言われるくらい、とても感情表現が豊かになっており、それが彼の作品の最大の特徴となっています。ロヒールは、初期フランドル派で感情表現に重きを置いた最初の画家です。

 

 下図はロヒール・ファン・デル・ウェイデンの1435年の出世作「Descent from the Cross(キリスト降下)」です。上記のロベルト・カンピンとヤン・ファン・エイクの作品に比較すると、個々の人物の感情を丁寧に表現していることがわかります。

 

 中央ではマリアがイエスの死を見て倒れ込んでいます。

 

 

 右側では、マグダラのマリアが苦悶に体をよじっています。表情もさることながら、首筋の表現、そして組んだ手の血管の浮き出方など、表現に目覚ましい進歩が見られますね。

 

 

 左側では、クロパの妻マリアが涙を流しています。この時代の作品で涙を描きいれているものは大変珍しいらしく、涙を描いた最初の作品である可能性が指摘されています。

 

 

 

 ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの作品は、ほとんどが戦争などで失われているため、間違いなく彼の作品だと断言できるものは1点もありません。

 これまでの研究では、ほぼ彼の作品と考えて間違いないだろうと考えられている作品が上記の「キリスト降下」を含め3点(下図)と、様式が似ているので、ロヒールの作品ではないかと推測されているものが60点ほどあるだけです。

 

 

 

 ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの記録もなくなってしまったため、彼の若い頃のことはよくわかりません。ロヒールの名前が記録上現れるのは、1435年、ブリュッセルの公式画家として登録されたのが最初です。したがって、生年もわからないのです。

 

 でも、生年が1399/1400年となっているのは変ですよね。

 

 実は、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンは、1400年頃トゥルネーで生まれた画家ロジェ・ド・ラ・パステュール(Rogier de la Pasture)と同一人物ではないかと考えられているのです。

 

 ロジェはトゥルネーで活躍し、結婚して子供をもうけています。彼のトゥルネーでの最後の記録は1435年のもので、「ブリュッセル在住」となっているのです。

 

 つまり、ロジェ・ド・ラ・パステュールは1435年からブリュッセル在住だった。一方、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンは、1435年からブリュッセルの公式画家になっている。この2点からロジェ=ロヒールであると結論づけられているのです。

 

 じゃあ、なんで名前が違うのか?

 

 きっとオランダ語圏のブリュッセルに移るに当たって、フランスっぽい「ロジェ・ド・ラ・パステュール」という名前から、オランダっぽい「ロヒール・ファン・デル・ウェイデン」という名前に改名したんじゃないの?というのが研究者の見立てです。

 

 ちなみに、パステュールはフランス語で「牧場」を指し、「ウェイデン」もオランダ語で「牧場」を意味します。 ロジェはどうしてロヒールになったかというと、「Rogier」のフランス語読みがロジェで、オランダ語読みが「ロヒール」なんです。したがって、どちらの名前も「牧場のRogier」という意味なのです。

 

 推理が乱暴ですか?でも資料がないので、仕方がないんです。頭に置いておかなければいけないのは、15世紀頃の美術史というのは推測の上に推測を塗り重ねたものであり、現在言われていることが必ずしも真実ではないということです。

 でも、曖昧だからこそ、自分でも仮説を立てて推理することができるんです。そこがこの頃の美術史の楽しいところだと思います。 

 

 次回はウェイデンの生涯と作品です。

 

 

 

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