ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(Rogier van der Weyden 1399/1400 - 1464)の初期の代表作品
ロヒール・ファン・デル・ウェイデンのトゥルネー時代の代表作品
今回はロヒール・ファン・デル・ウェイデンの前半、まだ、彼がトゥルネーに住み、ロジェ・ド・ラ・パステュール(Rogier de la Pasture)と名乗っていた頃の作品を紹介します。
・1399年か1400年、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンと同一人物だろうと思われているロジェ・ド・ラ・パステュール(Rogier de la Pasture)はブルゴーニュ領ネーデルラントのトゥルネー(現在のベルギー、下図))で生まれました。
父親のヘンリ・デ・レ・パストゥールは刃物職人で、母はアニエス・デ・ワットルローといいます。ロジェの幼少期についてはわかっていませんが、大学で教育を受けたのではないかと推測されています。
・1426年、ブリュッセルの靴職人ヤン・ホッファールトと妻カテリナ・ファン・ストッケムの娘エリザベト・ホッファールト(Elizabeth Goffaert)と結婚しています。二人は生涯に4人の子供を授かっています。
・1427年、27歳のロジェは、トゥルネーの芸術家ギルドの聖ルカ組合にマイスターとして認定されました。マイスターは、独立した画家であり、工房を持つこともできます。ロジェがマイスターとして独立するまで、どこで修行をしていたかは明らかになっていません。
この年、ロジェは4歳年下のジャック・ダレーとともにロベルト・カンピンの工房に入りました。マイスターの称号を持ちながら親方にならずに工房のメンバーとして働くのは珍しいと思いますが、独立しても注文が取れなかったのかもしれません。レオナルド・ダ・ヴィンチもマイスターになってからも工房のメンバーとして働いていました。
当時、トゥルネーの議会はギルド(職人の組合)が取り仕切っていました。ロベルト・カンピンは、当初彼の所属するギルド「金職人と画家の聖ルカギルド」の代表者でしたが、1427年から全ギルドの代表者となり、トゥルネーを牛耳るようになりました。まあ、早い話が独裁色の強い市長ですね。カンピンだって絵なんぞ描いているヒマはないでしょう。依頼をこなすために大量に若手を採用したのかもしれませんね。
その後、ロジェは1432年までの5年間、ロベルト・カンピンの工房に在籍しています。
1430 Madonna Standing(立位の聖母)
ロジェ・ド・ラ・パステュールの最初期、カンピンの元で修行していた頃の作品です。
1430 Virgin and Child Enthroned(玉座の聖母子)
こちらもカンピンのもとで修行していた時代の作品です。上記の作品とほぼ同じ構図で聖母がイエスにおっぱいをあげていますが背景の構造物に気合が感じられます。
下図2枚目は、初期フランドル派の開祖である通称「フレマールの画家」のものとされる「炉格子の前の聖母」です。マリアの顔やおっぱいをあげる姿が酷似しています。
この2枚が酷似していることが根拠の一つとなり、「フレマールの画家」はロジェ・ド・ラ・パステュール(ファン・デル・ウェイデン)の師匠のロベルト・カンピンなのではないかと言われるようになりました。
現在は「炉格子の前の聖母」はロベルト・カンピンの作品であるということになっています。ただ、問題は弟子のロジェの作品の制作年が1430年であるのに対し、師匠のカンピンの作品の制作年が1440年頃とだいぶ遅いところです。
「炉格子の前の聖母」はカンピンではなくて、ロジェ・ド・ラ・パステュールの作品なのではないの?それとも、カンピンが弟子のウェイデンの作品をパクったの?
この絵を根拠に「フレマールの画家」は、カンピンではなくロジェ・ド・ラ・パステュール(ファン・デル・ウェイデン)だという専門家たちもいます。
飛ぶ鳥を落とす勢いのロベルト・カンピンでしたが、1429年、ギルドによるトゥルネー市議会の支配政治が終わり、カンピンは裁判で有罪となってしまいます。
さらに、1432年には不倫がバレて姦通罪で告訴され、1年間の追放処分となりました。
・1432年、、ロジェ・ド・ラ・パステュールはカンピンの工房を去っています。おそらく、カンピンの有罪に伴い、工房も縮小か解体されたのでしょう。
カンピンの工房をやめたロジェは、トゥルネーをさり、ブルッヘ(Bruges)に引っ越したのではないかと推測されています。その頃、Brugesには今をときめくヤン・ファン・エイクがいました。ロジェは、徐々にヤンの技術を吸収していきました。
1434 Annunciation Triptych
ロベルト・カンピンから始まる初期フランドル派は、多くの場合、聖母と一緒に本を描き込んでいます。一説によると、この本は聖書の暗喩であり、キリストの救済をほのめかしているのではないか、ということですが、こんななんの根拠もない仮設なら誰にでも唱えられます。単にカンピンがマリアは読書家だったと思っていただけってことだってありえます。
1435 Durán Madonna
1435 Portrait of a Woman
この作品はシッターのポートレートです。ポートレートについても師匠のカンピンとロジェ・ド・ラ・パステュールの画風は大変似ており、作品の帰属が難しくなっています。この作品は一応、ロジェの作品ということになっています。顔が斜め横を向いているのに目が正面向きです。そのためちょっと怖い感じがします。
1435 Saint Luke Drawing the Virgin(マリアを描く聖ルカ)
St Luke(聖ルカ、右の人)は、絵がうまかったため(下図2枚目)、画家の守護聖人になっています。当時の画家のギルドの名前も彼にちなんで「聖ルカ組合」となりました。
この作品の背景は、ヤン・ファン・エイクの背景の影響を受けていますね(下図3枚目)。ヤンの作品のバルコニーにいる人は、遠近法が間違っているため、小人に見えてしまいますが、ロジェの作品はそこまでおかしくありません。でも、やっぱり遠近法に間違いがあります。正確な遠近法で描かれた絵がフランドルで最初に現れるのは、1457年です。
before 1438 The Magdalen Reading
この作品は祭壇画の一部です。足元にある軟膏のつぼからマグダラのマリアだろうと考えられています。
2枚目は1438年のロベルト・カンピンのものとされる作品です。こちらの作品の女性はマリアですが、構図が同じです。
・1435年、ロジェ一家はブリュッセルに移住しました。
次回はロヒール・ファン・デル・ウェイデンの後半、ブリュッセル時代です。