新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

ヒエロニムス・ボスの生涯と代表作品(1) フランドル派の異端児ボスの人生と絵画一覧

 

 

ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch 1450 - 1516)概説

 

 ヒエロニムス・ボスは、15世紀に活躍した初期フランドル派ネーデルランドの画家です。ネーデルランドとは、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクあたりの低地を指します(下図)。当時は17州からなり、フランドル地方がネーデルランドの文化と経済の中心地でした。

 

 

 ヒエロニムス・ボスが活躍していた頃、ネーデルランドは、ルネサンス期の真っ只中でした。

 

 他の画家たちが明暗法や遠近法を取り入れて、下図のような写実的な人物や風景を表現するなか、ヒエロニムス・ボスは我が道を行き、人間の意識下に潜む欲望や罪を浮き彫りにするような、幻想的で怪異な作風の作品を生み出しました(下図2枚目以下)。

 

 

 

 

 

 彼の作品は、ルネサンス期の他の画家の作品と比較するとあまりに個性的で異質です。現代の私たちから見ると15世紀の作品とはとても思えません。まるでシュールレアリスムの作品を見ているようです。

 

 そんなボスですから、当時はきっと浮いた存在で変人扱いされていたに違いない、と思われるかもしれませんが、実はそんなことはまったくありませんでした。

 

 ヒエロニムス・ボスは、裕福で教養があり、道徳心と厚い信仰心を持った地元の名士でした。

 さらに、画家としても大変尊敬されていて、その作品は国際的にもとても人気がありました。あまりの人気で複製画が多数出回ったため、のちの研究者が真贋鑑定に四苦八苦したくらいです。

 

 彼は、国内だけでなく、ヨーロッパ各地の王侯貴族たちからの依頼も受け、工房で弟子を指導しながら作品を制作し、多くのコミッションを得ていました。特にスペインのフェリペ2世はボスの熱烈な愛好者だったため、スペインにはボスの作品が比較的多く残されています。

 

 ヒエロニムス・ボスの作品は、ほとんどが16世紀の宗教改革運動による偶像破壊で失われてしまい、現在は8枚のドローイング と16点の祭壇画(完全な作品は8点のみ)を含む30点弱の作品が残されているだけです。そのうち実際に彼のサインのある作品は7点にとどまっています。

 しかし、彼の作品はピーテル・ブリューゲル(下図はブリューゲルの作品)を始めとする後世の画家に大きな影響を与えました。

 

 

 

 

 ヒエロニムス・ボスの生涯は通常3つの時期に分けられます。

 

・初期(1470〜1485)

・中期(1485〜1500)

・後期(1500〜)

 

 今回は、「初期」についてお送りします。初期は1485年までで、ボスの年齢はおおよそ35歳です。

 

 

ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch 1450 - 1516)の生涯と代表作品

 

初期(1470〜1485)

 

 ヒエロニムス・ボスの初期の経歴は、資料が存在しないためほとんど明らかになっていません。

 生年も1450年となっていますが、死亡する1年前に描いた初めての自画像(下図)が60代に見えることから、「生まれたのは1450年くらいじゃないの?」と言うことで1450年となっています。

 

 美術史の世界はすごく欠けた情報をもとに色々と推測で物を言いますが、問題は根拠が極めて曖昧な推測が、さも真実のように語られてしまうところです。

 

 

 まあ、だいたい1450年頃、ヒエロニムス・ボスはBrabant(ブラバント州)にある's-Hertogenbosch(ス・ヘルトーヘンボス)(下図)と呼ばれる、現在のベルギー国境の近くの街で生まれました。

 

 

 彼は、本名をイェルーン・ファン・アーケン(Jheronimus van Aken)と言い、祖父も父も叔父たちもみんな画家でした。

 祖父の名前はヤン・ファン・アーケン(Jan van Aken)、父の名はアントニス(Anthonis)で、彼には5人の息子がおり、そのうち4人が画家になっています。一方、お母さんは画家ではなく、仕立て屋の娘さんでした。

 

 ヒエロニムス・ボスの「ボス」は、彼が生涯を通して暮らした街's-Hertogenboschの通称「Den Bosch(森の意味)」に由来します。おそらく「ヒエロニムス」は荒野で修行したキリスト教の聖人である聖ヒエロニムスに由来するのだと思いますが、これまた根拠がありません。

 

 アーケン家はBrabantの名士で、「Illustrious Brotherhood of Our Blessed Lady」と呼ばれる宗教慈善団体に加盟しており、お父さんは団体の美術顧問をしていました。

 この団体は、ヨーロッパ全土に7000人のメンバーを擁し、Brabantからは40人の名士が名を連ねていました。団体のメンバーになることは大変な名誉で、メンバーは周囲からとても尊敬されていたようです。

  ボスに対する依頼の多くも「Illustrious Brotherhood of Our Blessed Lady」からだったのではないかと考えられています。

 

 ボスの初期の経歴はほとんど不明です。何と言っても生年さえわからない状態なのですから。したがって、彼が誰のもとで修行をしたかは明らかになっていません。

 しかし、多くの研究者は「親戚が画家だらけなんだから、親族に教わったんだろう」と考えています。

 

 この考えは大変短絡的ですが、私も親族に教わった可能性が高いと思います。理由は、ボスの特異性です。

 

 ボスは、モチーフはもちろんですが、油彩のテクニックも独特でした。当時はテンペラに変わって油彩技術がヤン・ファン・エイクによって確立されたばかりの頃で、絵の具を油で溶いて薄く何回も塗り重ねる技法が普通でした。

 しかし、ヒエロニムス・ボスはゴッホのように厚塗りで画面を仕上げていたのです。

 

 もし、彼がどこかの工房に所属していたら、彼の油彩のテクニックは修正されていたはずです。なぜなら、工房ではみんなで一つの作品を作るため、「僕、厚塗りします」と言う人が一人でもいたら仕事にならないからです。

 こんなボスの個性を潰さずに面倒を見てくれるのは親戚だけでしょう。

 

 下2枚は1475年、おそらくボスが20代半ばの頃の作品です。まだ、奇怪なボスの特徴は見られません。2枚目のエッケホモは、ローマ市民の前に駆り出されるキリストを描いていますが、左下に人物を消したような跡と文字があります。何でしょうね?

 

・1475 Adoration of the Magi (東方三博士の礼拝)

・1475 Ecce Homo(この人を見よ・エッケホモ)

 

 

 

 

・1478年、20代の後半に、ボスは公式に独立した画家として認められました。

 

・1479年〜1481年の間で、ボスはAleyt Goijaert van den Meervenne(アレイト・ホヤールト・ファン・デ・メルヴェンヌ)という女性と結婚しています。

 

 メルヴェンヌは上流階級の出身で、持参金として土地と家を持ってきました。二人は彼女の家のあるOirschotに引っ越しをしました。

 

 以下は1480〜1485年の作品です。2枚目の祭壇画にはまだボスの奇怪な世界感は見られませんが、最後の「荒野のヒエロニムス」はボス独特の世界に近づいているのがわかります。

 

 「最後の審判」は制作年は早いのですが、完成年が遅いため、かなりボス色が強くなっています。この作品は三連祭壇画で、5枚目が開いた状態、6枚目が閉じた状態、7枚目が中心のパネル絵の拡大図です。

 左のパネルは、エデンの園で、上空では堕天使が虫に変えられています。地上ではアダムとイヴが堕天使に誘惑されています。中心のパネルは、魂の選別をする最後の審判、さらに右が地獄となっています。

 

 

1480 Crucifixion with a Donor(磔刑)(下図1枚目)

1485 Adoration of the Magi(東方三博士の礼拝)(下図2枚目〜4枚目)

1485 St. Jerome at Prayer(聖ヒエロニムス)(下図5枚目)

1482-1500 The Last Judgment(最後の審判)(下図5枚目以降)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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