- ネーデルランド(フランドル)ルネサンスの代表的な画家の師弟関係
- ネーデルランド・ルネサンスの代表的な画家と作品(3)
- 1450年代以降(生年順)
- ヘラルト・ダヴィト(Gerard David 1460 - 1523)
- フアン・デ・フランデス(Juan de Flandes 1460 - 1519)
- ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス(Geertgen tot Sint Jans 1465 - 1495)
- クエンティン・マサイス(Quentin Massys / Quinten Massijs 1465/66 - 1530)
- ミケル・シトウ(Michael Sittow 1468 - 1525/1526)
- ヨアヒム・パティニール(Joachim Patinir 1480 - 1524)
- シモン・ベニング(Simon Bening 1483 – 1561)
- アンブロシウス・ベンソン(Ambrosius Benson 1495/1500 - 1550)
- ヤン・ファン・スコーレル (Jan van Scorel 1495 - 1562)
- ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel de Oude 1525-1530 - 1569)
- 1450年代以降(生年順)
ネーデルランド(フランドル)ルネサンスの代表的な画家の師弟関係
下図は、ネーデルランド(フランドル)ルネサンスの画家たちの師弟関係をまとめたものです。師弟関係については記録がないものが多く、後世の研究者が画風や筆致から師弟関係にあったのではないかな?と推測したものがほとんどです。
ロベルト・カンピン系列
・ロベルト・カンピン → ジャック・ダレー
↓
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
↓ ↓
ハンス・メムリング ディルク・ボウツ
↓ ↓
ミケル・シトウ クエンティン・マサイス
ロベルト・カンピンはネーデルランド(フランドル)・ルネサンスの始祖「フレマーレの画家」と同一人物だと考えられています。
現存するロベルト・カンピンの作品は一つも特定されていませんが、彼の弟子であるジャック・ダレーの作品が「フレマーレの画家」の作風に似ていることから、カンピン=「フレマーレの画家」と考えられるようになりました。
ロベルト・カンピンの弟子であるロヒール・ファン・デル・ウェイデンは、カンピン、ヤン・ファン・エイクと並んで、ネーデルランド・ルネサンスの三頭の一人です。
さらに、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの弟子であるハンス・メムリングも巨匠として名高く、ヤン・ファン・エイクとその弟子のペトルス・クリストゥスが亡き後、ネーデルランド(フランドル)・ルネサンスを牽引しました。
ヤン・ファン・エイク系列
・ヤン・ファン・エイク
↓
ペトルス・クリストゥス
・フーベルト・ファン・エイク
↓
ヨース・ファン・ ワッセンホフ
ヤン・ファン・エイクはネーデルランド(フランドル)・ルネサンスの重鎮の一人です。昔はヤン・ファン・エイク=「フレマーレの画家」と考えられていた時期もありました。
ペトルス・クリストゥスはヤンの亡き後、彼の画房を引き継ぎ、ネーデルランド派(フランドル派)の中心となりました。
フーベルト・ファン・エイクはヤンのお兄さんです。
その他の系列
・フーゴー・ファン・デル・グース
↓
ジャン・エイ
・アルベルト・ファン・アウワーテル
↓
ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス
・ヘラルト・ダヴィト
↓
アンブロシウス・ベンソン
フーゴー・ファンデル・グースは自殺未遂を引き起こし、その翌年42歳で死亡しています。
アルベルト・ファン・アウワーテルとヘールトヘン・トット・シント・ヤンスは現在のアムステルダム近郊の街ハールレムで活躍したことから、「ハールレム派」もしくは「オランダ派」と呼ばれています。
ヘラルト・ダヴィトはアンブロシウス・ベンソンの絵のコレクションを彼に返さなかったため、訴えられ、投獄されてしまいました。
ネーデルランド・ルネサンスの代表的な画家と作品(3)
1450年代以降(生年順)
ヘラルト・ダヴィト(Gerard David 1460 - 1523)
ハンス・メムリングの影響を強く受け、彼の死後、ブルッヘの筆頭画家になりました。アンブロシウス・ベンソンの先生です。ところが、ダヴィトはベンソンのコレクションである絵画やドローイングを横取りした罪で牢屋に投獄されてしまいました。
作品は細かく写実的であり、全体の構成もよく考えられています。大変美しい作品です。
フアン・デ・フランデス(Juan de Flandes 1460 - 1519)
スペインで活躍した宮廷画家です。生い立ちの詳細は不明ですが、ヨース・ファン・ ワッセンホフやフーゴー・ファン・デル・グースなどと画風が似ているため、彼らと同じ都市ヘントで修行したのではないかと推測されています。
ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス(Geertgen tot Sint Jans 1465 - 1495)
ハールレム派の創始者とされるアルベルト・ファン・アウワーテルの弟子ではないかと推測されています。28歳と短命でした。
ハールレムは、現在のアムステルダム近郊であることから、アルベルト・ファン・アウワーテルとヘールトヘン・トット・シント・ヤンスは、「初期オランダ派」とも呼ばれます。下図2枚目は初期ネーデルランド派初の楽器の絵であると言われています。
クエンティン・マサイス(Quentin Massys / Quinten Massijs 1465/66 - 1530)
アントワープ(アントウェルペン)派の創始者であり、ルネサンス後期のマニエリスム様式の画家です。ディルク・ボウツの工房で修業したと考えられています。
この頃から、文化・経済の中心地がブルッヘからアントワープに移り始めます。アントワープはその後、ルーベンスなどを輩出し、フランドル・バロックの中心地となります。下のようにかなり独特な絵もありますが、普通の絵も描きます。
ミケル・シトウ(Michael Sittow 1468 - 1525/1526)
ハンス・メムリングの弟子で、ブルッヘに止まらずに海外に進出し、最高年収をもらうスペインの宮廷画家になりました。しかしながら、ミケル・シトウの作品はほとんど現存していません。
ヨアヒム・パティニール(Joachim Patinir 1480 - 1524)
雄大な風景に著名人や宗教・歴史上の人物を描き入れる「万象の風景画(Weltlandschaft)」を開拓し、北方ルネサンス風景絵画の先駆者とみなされています。風景画はともすればのっぺりとなってしまいがちですが、彼は画面全体の明暗の使い方が大変上手なので作品にメリハリがあります。
ヘラルト・ダヴィトとともに修行していたのではないかと考えられ、また、ドイツ人画家のアルブレヒト・デューラーと友達です。
シモン・ベニング(Simon Bening 1483 – 1561)
シモン・ベニングは装飾写本(ミニアチュール)非常に細密で美しい風景画を残し、風景画の新たな地平を開拓したとして評価されている装飾写本作家です。
アンブロシウス・ベンソン(Ambrosius Benson 1495/1500 - 1550)
アンブロシウス・ベンソンは、ヘラルト・ダヴィトの弟子です。ヘラルト・ダヴィトとアンブロシウス・ベンソンは1519年に諍いを起こし、訴訟にまで発展してしまいます。結局、ベンソンの主張が通り、ダヴィトは収監されてしまいました。
アンブロシウス・ベンソンは、当時人気が高く、大きな工房を主催していました。人物に柔らかさがなく、ロボットかマネキンのようですが、まあ、雰囲気はある作品です。
ヤン・ファン・スコーレル (Jan van Scorel 1495 - 1562)
ヤン・ファン・スコーレルは、イタリア・ルネサンスをオランダへ紹介した画家です。ヤン・ファン・スコーレル は、ニュルンベルクでアルブレヒト・デューラーに会って影響を受け、ヴェネツィア滞在中にはジョルジョーネから影響を受け、さらにミケランジェロとラファエロ・サンティの影響を受けました。影響を受けやすい性格です。
ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel de Oude 1525-1530 - 1569)
ピーテル・ブリューゲルもヒエロニムス・ボスほどではありませんが個性的な美しい作品を残しています。彼の「死の勝利」は、ヒエロニムス・ボスの影響が見られます。この絵画は ペスト流行の教訓画として描かれました。当時はこのような死にまつわる絵画が数多く描かれています。