新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

3分でわかるティツィアーノ(3) ティツィアーノの画家人生の「後期」とその代表作品

 後期(1530〜1550年) 

 

 今回はティツィアーノ・ヴェチェッリオ(英:Titian、伊:Tiziano Vecellio、1488/90〜1576)の3回目、ティツィアーノの画家人生の「後期」とその代表作品です。

  後期は、1530〜1550年の間で、彼の年齢はおおよそ50〜70歳になります。

 

 中期において、ティツィアーノは、複雑な独自の構成を確立し、多くの祭壇画を手がけました。後期になると富裕層(特に神聖ローマ帝国皇帝カール5世とその息子のスペイン王フェリペ2世)がパトロンになるようになったため、祭壇画が少なくなり、肖像画や富裕層に人気だった神話画が多くなります。ティツィアーノの神話画は、強い陰影をつけたバロック様の劇的で物語性の強いものへと変化していきました。

 

 下図1〜3枚目はティツィアーノによるカール5世と息子のフェリペ2世の肖像画です。

・カール5世騎馬像 1548年

・カール5世肖像画 1548年

・鎧をつけたフェリペ2世 1551年

 

4枚目はティツィアーノによる「イザベラ・デステの肖像画」(1543年)です。この時、イザベラは60歳です。でも、肖像画は20代に見えます。最初はティツィアーノも見た通りに描いたのですが、イザベラの逆鱗に触れ、描き直す羽目になりました。で、こんなに若い肖像画になったそうです。

 

5枚目はレオナルド・ダ・ヴィンチによる「イザベラ・デステの肖像画」(1501年)です。当時イザベラは27歳です。この絵が「モナ・リザ」に大変似ているため、「モナ・リザ」のモデルはイザベラではないかという説もあります。

 

 

 この時期の神話画の代表作はサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂(cupola at Santa Maria della Salute)(下図)の3点の作品です。これらの作品は、下から見上げた視点で描かれているため、劇的効果が上がっています。

 

 

・Death of Abel(カインとアベル)1542年

 カインとアベルはアダムとイヴの息子たちです。兄のカインは畑を耕し、弟のアベルは羊を放牧して暮らしていました。二人はヤハウェに捧げ物をしますが、ヤハウェはアベルの供物を気に入ります。嫉妬したカインはアベルを殺害し、ヤハウェによってノドの地に追放されてしましました。聖書によれば、これが人類最初の殺人となります。

 

 

・Sacrifice of Abraham(イサクの燔祭)1542年

 アブラハムは一人息子のイサクを生贄に捧げるよう神に命令されました。モリヤの山上でアブラハムがイサクの首を切り落とそうとしたその時、神からの使いである天使がイサクを止めに入りました。 

 

 

 ・David and Goliath(ダビデとゴリアテ)1542年

 

  ゴリアテはペルシテ軍の無敵の巨人戦士です。イスラエルに侵攻したペルシテ軍とイスラエル軍の間で戦争が勃発し、ダビデの3人の兄も戦場へと出かけていきました。末弟のダビデは母に頼まれ、戦場の兄たちにお弁当を届けいきます。ほとんどピクニックのノリです。

 

 ダビデが戦場に到着すると、ゴリアテがタイマン勝負を求めてイスラエル軍を挑発している真っ最中でした。

 

 それを見たダビデは、ゴリアテを倒したら報奨金はいくら出るのか?と周りの兵士に確認しています。ダビデはイスラエルのためにゴリアテと戦おうと思ったのではなく、報奨金が目当てだったのです。

 

 報奨金に満足したダビデは、石投げ器に石を入れるとゴリアテに向かって投げつけ、一撃のもとに倒してしまいました。それを見たペルシテ軍は潰走し、イスラエル軍の大勝に終わりました。

 

  

・1538年、1516年からスタートしたドゥカーレ宮殿の絵画の制作が進まないので、ティツィアーノは共和国政府から賃金の返還を求められる事態となりました。

 

 この作品については完成時に賃金が渡されるのではなく、年金として毎年賃金が支払われるシステムでした。つまり、長引けばそれだけお金が入ってくるのです。ティツィアーノはその辺はよくわきまえています。

 

 その後、ティツィアーノの後継者としてイル・ポルデノーネ(Il Pordenone)が任命されましたが、この年に死亡し、結局ティツィアーノが再任されました。反省したティツィアーノのは「カドーレの戦い」を制作しましたが、1577年のドゥカーレ宮殿の火災により消失しています。

 

・1540年代から、ジョルジョーネ「ドレスデン・ヴィーナス(眠れるヴィーナス)」(1510年)に着想を得た「横たわるヴィーナス」のシリーズ、さらに「ダナエ」シリーズの制作をはじめました。

 

 「ドレスデン・ヴィーナス」(下図)は、ジョルジョーネの作品ですが、完成前に死んでしまい、弟子のティツィアーノが完成させました。 

 

 

 「ヴィーナスです」と言っていれば家に堂々とヌードが飾れるのです。しかも、ちょっと教養があるようにすら見えます。これは売れないはずがありません。ティツィアーノは、工房の弟子たちを使って数多くのヌード画の制作に励みました。

 

・Ulbino Vinus(ウルビーノ・ヴィーナス)1534年(下図1枚目)

・Purado Venus(Jupiter and Antiope)1535年(下図2枚目)

・ヴィーナスと音楽家シリーズ 1540年代終わりから制作を開始しました。(下図3〜8枚目)ウルビーノのヴィーナスに比べると、量産型のため大変粗雑で出来の悪い作品です。

・Venus and Adonis  ほぼ同じものが13点存在します。1554年のフィリッペ2世の依頼が最初です。(下図9枚目)

 

 

  1863年、マネはティツィアーノのヴィーナスと同じ構図で「オランピア」(下図)を描いています。ただ、中心の女性はヴィーナスではなく娼婦です(モデルのヴィクトール・ムーランは娼婦ではありません)。娼婦を描いたため、物議を醸しましたが、この作品はマネの代表作となりました。 

 

 

 「Danae(ダナエ)シリーズ」 は、1544年から1560年代にかけて制作され、少なくとも6点存在することが知られています。

 

 ダナエはアルゴスの王アクリシオスの娘です。ダナエは、最初の子供が父親(アクリシオス)を殺すという予言のためにブロンズの塔に幽閉されていました。ところがダナエを見初めたゼウスが黄金の雨となって塔に侵入し、ダナエを身ごもらせてしまいます。

 

 ダナエは、その後、ペルセウスを出産しました。孫を殺害することが出来なかったアクリシオスは、二人を箱に入れて流してしまいます。

 

 セリーポス島に流れ着いたペルセウスはすくすくと成長し、数々の冒険ののち、アルゴスへと帰りました。ペルセウスを恐れたアクリシオスは、アルゴスから逃げ出しますが、円盤投げの競技会でペルセウスが投げた円盤が頭に当たって予言通り死んでしまいました。

 

 

 ダナエについては、1531年にパルマで活躍していたコレッジョがすでに描いています(下図1枚目)。ティツィアーノのダナエはコレッジョのダナエと構図が異なり、ジョルジョーネのヴィーナスをベースにしながらも、ミケランジェロの「Night」(1526年)(下図2枚目)の影響が見られます。

 

 

 ティツアーノのダナエは多くののちの画家に影響を与えています。ちなみに、黄金の雨を金貨で表現したのはティツアーノが最初です。

    クリムトのダナエは西洋絵画史上もっともセクシーな絵画として有名です。黄金のシャワーの先端に黒い長方形がありますが、クリムトの作品では黒い長方形は男性もしくは男性器を表します。

 

・Hendrik Goltzius 1603年

・Orazio Lomi Gentileschi 1621年

・Rembrant 1636年

・Gustav Klimt 1907年

 

 

・1545年、ティツィアーノはローマを訪れています。ちょうどこの頃、70歳のミケランジェロもローマに滞在し、システィーナ礼拝堂の「最後の審判」(下図)を制作していました。

 

 

 この年、ミケランジェロと弟子のジョルジオ・ヴァザーリはティツィアーノの工房を訪ねています。ミケランジェロはティツィアーノの「ダナエ」を見てその場では賞賛したものの、その後、ティツィアーノの職人気質をクサしています。

 

 ミケランジェロからすれば、大衆人気のあるヌードを多用した神話画のコピーを工房で大量に制作し、売りさばくティツィアーノのやり方に反感を覚えたのかもしれません。

 

 ミケランジェロは、「ティツィアーノは目の前のものを写し取っているだけだ。そうではなく、モデルを超えた完璧さや優雅さを追求しなくてはいけない。ヴェネツィア人は古典の勉強が足りない」というようなことをヴァザーリに言っています。しかし、完璧さを追求したために、老いも若きも筋肉質のミケランジェロの作品もちょっと不自然だとは思いますが。

 

 まあ、ミケランジェロはもともと気難しく、レオナルド・ダ・ヴィンチラファエロのことも蛇蝎のごとく嫌っていたくらいなので、本当にそう思っていたのか、ティツィアーノの人気に対する嫉妬心からなのかはわかりません。

 

 

 ティツィアーノは後期では中期ほど宗教画や祭壇画を作っていません。理由はパトロンの変化によります。名前が売れてきたティツィアーノは教会ではなく富裕層からの注文が中心となりました。

 

後期の主要な宗教画・祭壇画(下図上から下へ)

 ・Presentation of the Blessed Virgin at the Temple(Scuola Grande di Santa Maria della Carita)1534年

・San Giovanni Battista(サンタ・マリア・マッジョーレ教会)1540年

・Ecce Homo 1541年 「エッケ・ホモ」とは「この人を見よ」という意味で、磔刑の前に荊冠され鞭打たれているキリストをあざ笑う人々に向けてピラトが発した言葉です。

・Incoronazione di spine 1542年

Serravalle祭壇画 1542年

・Castello Roganzuolo祭壇画 1543年 (アルビーノ・ルチアーニ教会:現在は美術館になっています)

 

 

  ティツィアーノは、この時期、最高の肖像画家の称号をテニしていました。彼の後期の主な肖像画は以下の通りです。

 

後期の主な肖像画(下図上から下へ)

・Charles V with a Greyhound(皇帝カール5世と猟犬) 1533年

・Francesco Maria Della Rovereの肖像 1536年

・Eleonora Gonzaga Della Rovereの肖像 1536年

・Alfonso d'Avalos Addressing his Troops  1540年

・Andrea Gritti 1540年

・Ritratto di Ranuccio Farnese 1542年

・Portrait of Pope Paul III(教皇パウロ3世)1543年

・Pope Paul III and his Grandsons 1545年

・Pietro Aretinoの肖像 1545年

・Isabella of Portugal(ポルトガル王女エレオノーラ)の肖像 

 

 

 

 

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