新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

3分でわかるティツィアーノ(2) ティツィアーノの画家人生の「中期」とその代表作品

中期(1517〜1530年) 

 

 今回はティツィアーノ・ヴェチェッリオ(英:Titian、伊:Tiziano Vecellio、1488/90〜1576)の2回目、ティツィアーノの画家人生の「中期」とその代表作品です。

 

 中期は、1517〜1530年の間で、彼の年齢はおおよそ37〜50歳になります。ティツィアーノは、画家としての初期にヴェネツィア派もトップであるジョヴァンニ・ベッリーニの工房に入り、兄弟子の天才ジョルジョーネ(下図)から技術を教わりました。その結果、ティツィアーノの才能が大きく開花します。

 

 

 私は大学で教えていたこともあるので、若者が才能を伸ばせるかどうかは、教える側に大きく依存することを身を持って体験してきました。私の学生は伸びないのに、他の教授の学生はすごーく伸びていたからです。やっぱり、優秀な教育者は大切なのです。

 

 その点、ティツィアーノはとても恵まれていました。彼はジョルジョーネに目をかけてもらえたことで、ヴェネツィア派のナンバー3になります(序列は先生のベッリーニ、兄弟子ジョルジョーネ、そしてティツィアーノ)。

 

 兄弟子とは言ってもジョルジョーネとティツィアーノの年齢はほとんど同じです。ジョルジョーネは、若くしてすでに大変な人気画家でした。

 

 その人気は凄まじく、あの、フェッラーラの統治者ゴンザーガ家のイザベラ・デステ(下図 レオナルド・ダ・ヴィンチによるイザベラの肖像。彼女はモナ・リザのモデルだったかもしれない女性です)ですら切望したにも関わらずジョルジョーネの作品を手に入れることが出来なかったくらいです。

 

 

 そんなジョルジョーネですが、その生涯は、ほとんど資料が残っていないため、西洋絵画史上もっとも謎の多い画家となっています。贋作や模倣品が多く出回ってしまったため、真作であると言われるものも数点しか残っていません。

 

・1510年、ティツィアーノにとって幸運?なことに、天才ジョルジョーネが33歳の若さでペストで死んでしまいました。この時点でティツィアーノはジョルジョーネの技術を吸収し、世間的にもジョルジョーネの正当な後継者であると見なされるようになっていました。そのため、ジョルジョーネの死後、多くの仕事が彼のもとに舞い込みました。

 

・1516年、さらに、幸運?は続きます。なんとその6年後、師匠でヴェネツィア派筆頭のジョヴァンニ・ベッリーニ(下図)も死んでしまったのです。そのため、べッリーニが占めていたヴェネツィア派トップの肩書きとヴェネツィア共和国公式画家のポジションに空きができました。

 

 

 ティツィアーノは、すかさずそのポジションに立候補し、これをゲット、名実ともにヴェネツィア派のトップとなりました。公式画家は何もせずとも年給がつく大変美味しいポストなのです。

 

 ここまでをまとめると、成功するには、まず、良い師匠や上司につくこと、さらに、自分に力がついた時点で、その上司が引退すること、の二つが重要であることがわかります(もちろん、本人に才能があることが大前提ですが・・・)。

 

・1516年、ヴェネツィア共和国の絵画制作最高責任者となったティツィアーノの最初の仕事はドゥカーレ宮殿(下図)大会議堂の絵画の制作でした。

 

 この制作は、ベッリーニがもともと依頼されていたものですが、死亡したため、後任のティツィアーノにお鉢が回って来たのです。

 

 ただ、ティツィアーノはこの仕事にあまり気乗りがしなかったようで、いつまでたっても作品を完成させませんでした。そのため、1538年に共和国政府から解雇され、賃金の返還を言い渡されてしまいます。

 

 ティツィアーノの後任には、ライバルのイル・ポルデノーネ(下図)が任命されたのですが、なんと、任命された途端にコロッと死んでしまい、ティツィアーノが再任されています。ティツィアーノにとって都合の悪い人は次々死んでいくのです。

 

 

 心を入れかえたティツィアーノはフレスコ画「カドーレの戦い」を完成させますが、1577年にドゥカーレ宮殿が火事になり、この作品は消失してしまいました。

 

 現在、ドゥカーレ宮殿のためにティツィアーノが制作した絵画は数点しか残っていません。

「Prayer to St. Christopher」(下図1枚目)

「TycjanDożaAntonio Grimani」(下図2枚目)

 

 

・1516年、サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂(下図)の祭壇画「聖母被昇天 (Assumption of the Virgin)」(下図2〜3枚目)を描き始めました。

 

 

 ティツィアーノは、このあと次々と祭壇画を制作しています。

  • アンコーナのサン・ドメニコ教会のGozzi祭壇画(1520年)(下図1枚目)
  • ブレシアのAveroldi祭壇画(1520年)(下図2〜3枚目)
  • フラーリ聖堂の祭壇画「Pesaro Madonna」(1519年から1526年)(下図4枚目)
  •  サン・ニッコロの祭壇画「Madonna of San Niccolo del Frari」(1533年)(下図5枚目)

 

 下図はAveroldi祭壇画のセバスティアヌスです。素晴らしい出来です。セバスティアヌスをモチーフとした絵画の最高傑作でしょう。

 

 それに引き換え、下図3枚目の小太りのセバスティアヌスを見てください。ひどい出来栄えです。刺さった矢を不思議そうに眺めている、ちょっとアホっぽいセバスティアヌスです。

 

 ちなみにセバスティアヌスはキリスト教の殉教者で、裸で縛り付けられて身体に矢が刺さっていたらだいたいセバスティアヌスと考えて間違いありません。 

 

 この頃から、ティツィアーノはヴェネツィア以外の都市からも注目を集めるようになりました。彼に最初に目をつけたのはフェッラーラとマントヴァでした。

 

 特に、フェッラーラには芸術マニアのイザベラ・デステがいました。彼女は「スタディオーロ」(下図はスタディオーロの3D復元図)という芸術コレクションの展示部屋を作り、内外の有名芸術家の作品を集めまくっていました。

 

 

 ちなみに、先にも述べたようにイザベラは「モナ・リザ」のモデル候補の一人です。現在ルーヴルに展示されている「モナ・リザ」のモデルは、リザ・デル・ジョコンドだと考えられています。

 

 しかし、「モナ・リザ」には多くの謎があり、おそらく現存の一枚に加えて、もう一枚の「モナ・リザ」が存在するであろうと多くの研究者は考えています。

 

 下図は多くの研究者が「2枚目のモナ・リザ」であろうと考えている「アイスワースのモナ・リザ」です。でも、私の解析ではこれはレオナルドの弟子の作品であり「2枚目のモナ・リザ」ではありません。

 

 

 さて、今回ティツィアーノに目をつけたのは、イザベラではなく、その弟のフェラーラ公爵アルフォンソ・デステ(Alfonso d'Este)(下図)でした。

 

 

 彼は、お姉さんの「スタディオーロ」を真似て「カメリーノ・ダ・アラバストロ(Camerino d'Alabastro)」という部屋を作り、酒神バッカスをテーマに有名画家たちに絵を描かせて飾っていました。ティツィアーノは、この部屋に飾る3点の大作を仕上げています。

 

 下図は上から

「ヴィーナスへの奉献(Worship of Venus)」(1519年)

「バッカスとアリアドネ( Bacchus and Ariadne)」(1520年 - 1523年)

「アンドロス島の人々( The Bacchanal of the Andrians)」(1523年 - 1524年頃)

 

 

・1523年、ティツィアーノは、Pietro AretinoとJacopo Sansovinoとともにヴェネツィア再建計画に携わっています。

 

・1525年、妻セシリアが重病にかかってしまいました。二人には、ポンポーニオとオラツィオという男の子が二人いましたが、いまだに内縁関係でした。二人はこの年に正式に結婚、セシリアの病状も回復に向かいました。

 

 回復したセシリアでしたが、1530年、娘ラヴィニアを出産した時に死亡してしまいます。その後、長男オラツィオはティツィアーノの助手に、ポンポーニオは聖職者になりました。ラヴィニアは1554年、貴族と結婚しましたが、1560年に母親と同じく出産時に死亡しています。

 

・1530年、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会の「聖ペテロの殉教(Death of St. Peter Martyr)」(下図)を制作しました。この作品は1867年の火事で消失し、現在、教会には複製画が掛かっています。

 

  この年、ティツィアーノは「うさぎと聖母(Virgin with the Rabbit)」(下図2枚目)も描いています。

 

 

 ティツィアーノの中期はここまでです。次回は後期になります。

 

 

 

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