- 初期ネーデルランド派(フランドル派)の絵画とは?
- ネーデルランド(フランドル)の地理
- ネーデルランド(フランドル)のルネサンス期の歴史
- ネーデルランド・ルネサンスの時代区分
- ネーデルランド・ルネサンスの起源と特徴
初期ネーデルランド派(フランドル派)の絵画とは?
初期ネーデルランド派(Early Netherlandish painting / Flemish Primitives)は、初期フランドル派とも言います。
初期ネーデルランド派(初期フランドル派)とは、ルネサンス期(15〜16世紀)にフランドル地方(ネーデルランド南部、現在のベルギー、オランダ南部、フランス北部にまたがる地域)を中心に栄えた芸術潮流の一つです。
ネーデルランドのルネサンスは、イタリア・ルネサンスの古代ローマ・ギリシアへの回帰とは異なり、中世ゴシック様式の延長として、写実性や遠近法を取り入れて発展しました。そのため、「後期ゴシック派」とも呼ばれます。
ちなみに油彩画の技術を確立したのも、風景画というジャンルを確立したのも初期ネーデルランド派だと言われています。ただ、世界初の風景画を描いたのはイタリア・ルネサンスのジョルジョーネ(下図:世界初の風景画と言われる「Tempest (1508)」)です。
ネーデルランド(フランドル)の地理
ネーデルランドとは、「低地の国々」という意味で、現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルにあたる地域です。当時、ネーデルランドは17の州で構成されていおり、ブルッヘ、ヘント、メヘレン、ルーヴェン、トゥルネー、ブリュッセルなどの都市をもつフランドル地方が、ネーデルランドの経済と文化の中心地でした。
ネーデルランド(フランドル)のルネサンス期の歴史
フランドル地方(旧フランドル伯領)は、現在のベルギー周辺で、毛織物の産地として有名な国際的な先進都市でした。当時、フランドルはヨーロッパの経済・文化の一大中心地であり、15世紀には絵画・音楽の分野ではイタリアを凌ぐ発展を見せました。
・1384年、フランドル地方は、フランドルの女性伯爵マグリットとブルゴーニュ公フィリップの結婚によってブルゴーニュ公国になります。
・1477年、最後のブルゴーニュ公であるシャルル突進公(下図)が戦死し、娘のマリーがブルゴーニュ公国を継承します。
・1482年、マリー女公の死亡によってブルゴーニュ領ネーデルランドは終焉を迎えました。その後、ブルゴーニュ公領はフランス王領になり、ハプスブルグ家がフランドルを含むネーデルランド17州を継承しました。
・1568年、プロテスタントがスペイン・ハプスブルグ家に反乱を起こし、八十年戦争へと突入します。その後、北ネーデルランドはプロテスタントが制圧し、ネーデルランド連邦共和国(現オランダ)に、また、南ネーデルランドはカトリックの死守により、ハプスブルグ家の統治が続きました。
ネーデルランド・ルネサンスの時代区分
イタリア・ルネサンスの時代区分(参考までに)
ネーデルランドのルネサンスは、イタリアのルネサンスと時期が重なりますが、初期においてはイタリアとは独立に発展しました。まずは、イタリア・ルネサンスの時代区分を見て見ましょう。
1300年代にイタリアのフィレンツェで発生したイタリア・ルネサンスは、西ヨーロッパに広がり、300年ほど続きます。絵画ではこの間を4つの時代に区分しています。
・前期ルネサンス(Proto-Renaissance 1300–1400)
・初期ルネサンス(Early Renaissance 1400–1490頃)
・盛期ルネサンス(High Renaissance 1490頃–1527)
・マニエルスム期(後期ルネサンス)(Mannerism 1527–1600)
ネーデルランド(フランドル)・ルネサンスの時代区分
一方、ネーデルランド・ルネサンスの時代区分は、ネーデルランド派(フランドル派)最初の画家であるロベルト・カンピン(Robert Campin, 1375-1444)(下図1枚目)やネーデルランド派の巨匠ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck, 1395-1441)(下図2枚目)が活躍した1420年代に始まり、ヘラルト・ダフィト(Gerard David, 1460-1523)(下図3枚目)の死去した1523年まで、もしくは、オランダ革命の始まる1566年頃までとするのが一般的なようです。
ヘラルト・ダフィトの死去した1520年代と1566年頃は、宗教改革により偶像崇拝を拒絶する風潮にあったため、ビルダーシュトゥルムと呼ばれる偶像破壊運動(イコノクラスム)が起こりました。このため、初期ネーデルランド派の作品は、そのほとんどが破壊されてしまいました。
ネーデルランド・ルネサンスは、イタリア・ルネサンスの「初期」から「盛期」に当たります。
ネーデルランドで芸術の変革が始まったころ、イタリアのフィレンツェでは、建築家のフィリッポ・ブルネレスキ(Filippo Brunelleschi)が一点透視図法を完成させ(1414年)、のちの絵画に革命を起こしました。
また、ネーデルランド・ルネサンスが終わったとされる1520年代の少し前にはレオナルド・ダ・ヴィンチが死去し(1519年)、1564年にはミケランジェロが死亡しています。
ネーデルランド・ルネサンスの起源と特徴
ネーデルランド(フランドル)の絵画の起源は装飾写本(ミニアチュール)
ネーデルランドのルネサンスは、北方ルネサンスにカテゴライズされますが、イタリアの古代復興とは個別に発展した絵画様式です。
その起源は、フランス王宮で伝統的に発展して来た装飾写本(ミニアチュール)(下図)にあり、ゴシックに写実性と遠近法を取り入れたヨーロッパ中世美術の集大成であると言われています。
当初、修道院で作られていたミニアチュールは、1400年代頃から工房で作られるようになりました。その結果、どんどん技術が向上し、1400年代の終わりから1500初頭にかけて頂点を迎えます。
その後、ミニアチュール生産の中心地はパリに移りますが、絵画の人気が高まると、人気がなくなり、衰退していきました。
なぜ、ロベルト・カンピンがネーデルランド・ルネサンスの始祖とされるのか?
まあ、ざっくり言えば、イタリア・ルネサンスは、過去を振り返って古代ローマ・ギリシアを規範とし、中世ゴシック様式から脱却したのに対し、ネーデルランド・ルネサンスは、中世ゴシック様式の延長線上として発展してきたということになります。
イタリア・ルネサンスの始まりは、フィレンツェのチマブーエ(Cimabue, 1240-1302)(下図1枚目)またはジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone, 1267-1337)(下図2枚目)だと言われています。理由は写実性の一つの指標である「遠近法」の萌芽が見られるからです。
確かに遠近法の萌芽が見られると言われれば見られますが、チマブーエなんか小学校の低学年レベルです。この頃生きていれば、私ですら巨匠になっていたのではないか?という勇気と希望を与えてくれるような作品です。
では、ネーデルランド・ルネサンスの始まりはなぜロベルト・カンピンなのでしょうか?確かにカンピンの作品では遠近法が用いられています。しかも、チマブーエやジョットに比べると、かなりしっかりとした遠近法です(下図)。
しかもとても緻密ですよね?この「緻密さ」と「小物の多さ」もネーデルランド絵画の特徴で、小物には色々と意味があるのです。
遠近法がしっかりしていると言うことは、カンピンよりもっと初期段階の遠近法を描いていた画家がいたはずです。その人こそネーデルランド・ルネサンスの始祖なのでは?
そう思うのですが、ネーデルランド・ルネサンスの始まりはイタリア・ルネサンスと同じ尺度では考えられていないようで、写本の技術を板絵に応用し、高度な写実性を完成させた段階をルネサンスの始まりと捉えています。
これらを達成した作品群が、フレマールの修道院に存在した1420年代の「フレマールの作品群」です。この作者は、不詳のため「フレマールの画家」と呼ばれていました。しかし、現在では、この「フレマールの画家」こそロベルト・カンピンなのではないかと考えられているのです。
しかし、イタリア・ルネサンスに比べるとネーデルランド・ルネサンスは資料が少なく、本当のところはわかりません(カンピン説も驚くほど薄い根拠です)。
上図の作品も実は「フレマールの画家」の作品です。おそらくロベルト・カンピンの作品であろうと考えられていますが、確実ではありません。下図も「フレマールの画家」の作品です。う〜ん、ヤン・ファン・エイクっぽいですよね。
ちなみに、ロベルト・カンピンとほぼ同世代のヤン・ファン・エイクは油彩画技術の確立者です。それまでは卵を使うテンペラという技法を用いていました。ネーデルランドでは、板に絵を描き始めたと思ったら、あっという間に油彩画まで開発してしまったのです。
油彩画技術は、その後、ヴェネツィア経由でイタリアにも伝わりました。ヴェネツィアは、港湾都市で帆布がたくさんあったため、板ではなく帆布を使った、軽くて安いキャンバスが作られるようになりました。
さて、1400年代は市場価値が高く、芸術作品の一大生産地だったネーデルランドですが、1500年頃からイタリア・ルネサンスに押されて陰りが見え始め、16世紀には完全に人気を失ってしまいました。