新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

ソフォニスバ・アングイッソラの生涯と絵画 女性初の国際的画家の人生と作品

 

 

ソフォニスバ・アングイッソラってだれ?

 

 ソフォニスバ・アングイッソラ (Sofonisba Anguissola 、1532〜1625)は、イタリアで生まれ、国際的に活躍した最初の女性画家です。

 

1556 Self Portrait

 

 

 ルネサンス期になると女性の画家たちが登場して来ます。そのような画家たちの多くは、修道院で装飾写本を制作していた女性修道士か、父親が画家で、家で絵の訓練を受けた女性でした。

 

 そんな中、ソフォニスバは、普通の家庭出身にもかかわらず、絵を習って女性画家となった最初の人物です(普通の家庭とは言っても下級貴族ですが)。

  

 その後、ソフォニスバは肖像画家として大成功を納め、長年スペインの宮廷画家を勤めて、晩年は多くの若手画家をサポートし、93歳で亡くなりました。彼女の人生は多くの女性画家たちのロールモデルとなりました。

 

 

 

ソフォニスバ・アングイッソラの生涯と作品

 

 ソフォニスバ・アングイッソラ (Sofonisba Anguissola 、1532〜1625)は、イタリアのクレモナで生まれました。

 

 父親のアミルカーレ・アングイッソラ(Amilcare Anguissola)は、ジェノヴァの下級貴族で、母親のビアンカ・ポンツォーネもやはり下級貴族の出身でした。ビアンカはソフォニスバが4歳の頃亡くなっています。

 

1557 Portrait of Bianca Ponzoni Anguissola, the Artist's Mother(母)

 この絵はソフォニスバが25歳頃に描いた母親です。おそらく想像して描いたのでしょう。 

 

 

 ソフォニスバは、六人姉妹(ソフォニスバ、エレーナ、ルチア、エウロパ、ミネルヴァ、アンナ・マリーア)の一番上で、さらに弟が一人いました。

 

 ソフォニスバの父親は、ルネサンス人特有の教育熱心さを示し、娘たちの芸術の才能を伸ばすためにあらゆるサポートをしました。その甲斐あって、ソフォニスバ、エレーナ、ルチア、エウロパ、アンナ・マリーアの5人の娘は画家となり、ミネルヴァは作家になりました。

 

 しかし、のちにエレーナは修道女になるために、また、アンナ・マリーアとエウロパは結婚のために絵の道を断念してしまいました。さらに、姉妹の中でもっとも才能があると言われていたルチアは、若くして死亡してしまいます。

 

1560 Portrait of the Artist's Family- Her Father Amilcare, Sister Minerva, and Brother Asdrubale(父とミネルヴァと弟)

 

 

1555 Chess game  (Lucia, Europa, and Minerva) (チェス)

 この作品はチェスをするルチア、エウロパとミネルヴァです。真ん中で笑っている女の子がミネルヴァですが、歯を見せて笑っている人物画はとても珍しいと思います(絵画史上初かもしれません)。こんなに自然で活き活きとした絵はこの時代には滅多にお目にかかれません。傑作です。

 

 

1551 The Artist's Sister, Elena Anguissola(エレーナ)

 

 

1564 The Artist's Sister Minerva Anguissola(ミネルヴァ)

 

 

・1546年、14歳のソフォニスバとエレーナは、地元の画家ベルナルディーノ・カンピ(Bernardino Campi)の元で絵を習うようになりました。

 

1550 Bernardino Campi painting Sofonisba(ソフォニスバを描くカンピ)

 17歳のソフォニスバは、彼女の絵を描いているカンピを描くという、まるでマグリットの作品を彷彿とさせるような二重構造の肖像画を描いています。とても才能があります。

 

 

・1550年、カンピがミラノに引っ越してしまうと、ベルナルディーノ・ガッティ(Bernardino Gatti)についてさらに3年間絵を学びました。

 

・1554年、22歳になったソフォニスバは、ローマへ旅行し多くの芸術に触れました。さらに、当地でミケランジェロと会う機会に恵まれました。

 

 ミケランジェロから「泣いている子供を描いてみせなさい」と指示されたソフォニスバは、蟹に手を挟まれて泣いている男の子を描いて見せました。ミケランジェロは、彼女の才能を認め、2年に渡り、彼女の指導をしています。

 

 

 ぽっと出の女の子に絵を教えるなんて面倒見の悪いミケランジェロらしからぬ行動ですが、当時ミケランジェロはすでに80歳近くなっていたため、ヒマだったのでしょう。指導の甲斐あり、ソフォニスバの腕はメキメキと上がりました。

 

1556 A Monk(修道士)

 生き生きとした素晴らしい出来栄えの肖像画です。ソフォニスバの肖像画の特徴は、人生をすべて肯定しているような生命力にあります。

 

 

1557 Portrait of Massimiliano Stampa, Third Marquis of Soncino(マッシミリアーノ・スタンパ)

 

 

・1558年、ソフォニスバは、ミラノへ行きアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(Duke of Alba)の肖像を描きました。

 

 アルバ公は、彼女の描いた肖像画を大変気に入り、ソフォニスバをスペイン王フェリペ2世に推薦しました。このことが彼女の人生の大きな転機となります。

 

1565 Portrait of Felipe II of Spain(フェリペ2世)

 

 

 フェリペ2世は、「ローマ劫掠」によってルネサンスを終焉へと導いた、神聖ローマ帝国皇帝カール5世の子供です。しかも、生まれた年も1527年、まさにローマ劫掠の年でした(どうでもいい豆知識ですね・・・)。

 

 ちなみにフェリペという名前はフィリピン諸島の名前の由来でもあります。当時スペインは無敵艦隊を持ち、「太陽の沈まぬ帝国」と言われるほどの領土と栄華を誇っていました(どうでもいい豆知識2)。

 

・1559年、27歳のソフォニスバは、フェリペ2世からマドリードに招かれました。この頃、彼女は多くの有力者の肖像画を手がけています。

 

1560 Portrait of Prince Alessandro Farnese(パルマ公)

 

 

1561 Archduchess Johanna of Austria(マントヴァ公妃)

 

 

1561 Self Portrait at Spinet with Attendant(自画像)

 

 

・1560年、フェリペ2世は、3番目の妃となるエリザベート(Isabel de Valois)と結婚しました。フェリペ2世より18歳年下のエリザベートは、フランス王アンリ2世の長女で、もともとはフェリペ2世の一人息子ドン・カルロスの婚約者でした。まあ、当時はすべて政略結婚なので父親と結婚しようが息子と結婚しようがあまり関係なかったのでしょう。

 

 ソフォニスバは、宮廷の肖像画家兼エリザベートの女官となりました。

 

1561-65 Isabel de Valois, Holding a Portrait of Felipe II(フェリペ2世の肖像を持つエリザベート)

 

 

1565 Isabel of Valois(エリザベート)

 

 

・1566年、エリザベートはイザベラ・クララ・エウヘニア(Isabella Clara Eugenia)を出産、翌年には、カタリーナ・ミカエラ(Catalina Micaela)を出産しました。ソフォニスバは、彼女たちの家庭教師もしています。

 

1570 Infantas Isabella Clara Eugenia and Catalina Micaela(エリザベートの子供達)

 

 

1573 Infantin Isabella Clara Eugenia(クララ・エウヘニア)

 

 

・1568年、妊娠していたエリザベートの容態が悪化し、死産ののちに死亡してしまいました。

 

・1570年、フェリペ2世は、38歳で未だ独身のソフォニスバの将来を案じて、彼女をパテルノ公子でシチリア総督のフランシスコ・デ・モンカーダ(Fabrizio de Moncada)とお見合いをさせました。

 

・1571年、ソフォニスバとフランシスコの結婚式が行われました。フェリペ2世は、彼女に多額の持参金を持たせています。とにかくフェリペ2世は面倒見がいいんです。その後も彼女はスペインで肖像画を描き続けました。

 

1574 Dona Maria Manrique de Lara y Pernstein and One of Her Daughters(スペイン貴族)

 

 

1577-79 Portrait of Caterina Micaela of Spain(カテリーナ・ミカエラ)

 

  

・1578年、18年に渡りお世話になったフェリペ2世に暇乞いをし、ソフォニスバ夫妻は、夫の故郷であるシチリア島のパテルノへと向かいました。その後もソフォニスバにはフェリペ2世から年金が支給されることになっていました。

 

 翌年不可解な事件が起こります。夫のフランシスコは、スペインからの年金の支給が滞っていたため、スペインへ文句を言いに行きました。ところが、その帰りにパレルモ沖で海賊に襲われ水死したというのです。しかしながら、本当に海賊に襲われたのかどうかは分からずじまいでした。

 

・1579年、夫と死に別れ、未亡人になってしまった47歳のソフォニスバは、生まれ故郷のクレモナへと帰ることにしました。スペインにも帰れないし、ほかに行くあてもないですからね。

 

 でも、人生何が起こるかわかりません。クレモナに帰るために船に乗ったソフォニスバは、なんと、その船の船長をしている年下のオラツイオ・ロメリーノと恋に落ちてしまったのです。

 

・1580年、二人はピサで結婚しました。去年フランシスコが死んだばかりです。ちょっとフランシスコがかわいそうですね。

 

 夫のロメリーノは、ジェノヴァの貴族の家系だったため、二人はフェリペ2世が購入してくれたジェノヴァの大きな屋敷に移り住み、ソフォニスバは、その屋敷の一画を自分専用の工房として使って宗教画と肖像画など多くの作品を制作しました。でも、残念ながら現存する作品はほとんどありません。

 

1586 Portrait of Giuliano II Cesarini aged 14 

 この作品のモデルの14歳のチェザリー二は、ローマの貴族ですが、奇人変人で有名で、のちにぶくぶくに太ってしまいます(どうでもいい豆知識3)。

 

 

1610 Self-Portrait

 

 

 ソフォニスバは、多くの若い画家を家に招き、絵の指導をするなどのサポートをしました。フランドルの画家アンソニー・ヴァン・ダイクもそのような画家の一人でした。

 

・1623年、ヴァン・ダイクはソフォニスバを訪問しています。ソフォニスバは、すでに90歳近くなり、白内障で視力も衰えていましたが、ヴァン・ダイクのスケッチブックに絵を描き、彼にアドバイスを与えています(下はヴァン・ダイクが描いたソフォニスバ)。

 

 

・1624年、ソフォニスバは、前夫が海賊に襲われて死んだとされるシチリアのパレルモに移り住みました。翌年、ソフォニスバはパレルモの地で93歳で死亡しています。

 

 なぜ、ソフォニスバは最期の地としてパレルモも選んだのでしょう?前夫フランシスコの死んだ地を見たかったのでしょうか?それとも死の謎を解きたかったのでしょうか?今となってはわかりようがありません。でも、ちょっと気になります。

 

 死の直前の行動は謎ですが、ソフォニスバは、父親、上司(フェリペ2世)、二人の夫に恵まれ、子供はいないながらも、とても充実した幸せな人生を送ったようです。

 

 

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