新・ノラの絵画の時間

西洋美術史・絵画史上重要な画家たちの代表作品と生涯をまとめました。

ルネサンスはなぜイタリアで始まったのか? ルネサンスが起きた4つの理由と歴史的背景

 

 

ルネサンス概説

 

ルネサンスの意味と語源

 

 ルネサンスは、1300年頃にイタリアのフィレンツェを中心に始まったギリシアやローマの古典文化を復興しようとする 運動です。ルネサンスはその後300年間続き、西ヨーロッパ諸国へと広がっていきました。

 

 「ルネサンス(Renaissance)」とは、イタリア語のリナシメント(rinascimento)を語源とする「再生」や「復活・復興」を意味するフランス語であり、日本語ではしばしば「文芸復興」と訳されます。

 

 Rinascitaを最初に使ったのは史上初の美術評論家で画家のジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari 1511-1574)だと言われています。ちなみに、フランス語のルネサンスが現在の意味で使われ始めたのは1800年代です。

 

 ジョルジョ・ヴァザーリは1550年にルネサンスの著名な芸術家の情報を「画家・彫刻家・建築家列伝(芸術家列伝)」にまとめました。怪しい情報も結構あるようですが、私たちにとってこの本はルネサンスの画家を知る上での主要な情報源となっています。

 

 

ルネサンスとヒューマニズム

 

 ギリシア・ローマ時代は、紀元前5世紀のギリシア哲学者プロタゴラスの記述にもあるように「人間こそが万物の尺度」であり、ヒューマニズムが重視されていました(下図は議論するデモクリトスとプロタゴラス)。  

 

 

 ところが、その後、キリスト教の勢力が強くなり教会の権威が増すにつれて、徐々にヒューマニズムは影を潜めていきました。ルネサンス以前の中世では、十字軍の遠征によりキリスト教が勢力を拡大し、12世紀には教皇の権力は頂点に達していました。そのため、この時代にはキリスト教と教会がすべての中心となっていました。

 

 ルネサンスとは、ざっくり言えば、当時のキリスト教や教会中心の視点を、ギリシア・ローマ時代のように人間を中心とした視点に戻そうとする流れです。

 

 しかしながら、この潮流は必ずしもキリスト教を否定するものではありませんでした。ルネサンスの芸術は、人間臭さを取り戻しながら、時には教会をパトロンとして隆盛を極めていくこととなります。

 

 ルネサンスは短期的な文化復興運動というよりはもっと大きな潮流のようなものであり、数世紀に渡りヨーロッパ全土に広まっていきました。

 

 「ルネサンス」という言葉は、狭義では上記のようにタリアの文芸復興運動を指しますが、広義では「ヒューマニズムに対する目覚め」的な意味で用いられます。そのため、この時代のイタリアとは独立に発生した芸術革命も「北ヨーロッパ・ルネサンス」と呼びます。このような場合、これらのルネサンスは必ずしも古代ギリシアやローマへの復古とは関係がありません。

 

 

ルネサンスの歴史的背景 (ルネサンスが起きた4つの理由)

 

 ルネサンスの起源については諸説ありますが、14世紀のイタリア、フィレンツェにその源があるとするものが有力です。しかしながら、その萌芽は12世紀からすでに存在していました。 では、なぜこの時代にイタリアでルネサンスが勃興したのか?その成因について有力な説を見てみましょう。    

 

 

1) 十字軍遠征によるイスラム圏との回合     

 

 1096年、聖地エルサレム奪還という大義のもと、ローマ教皇ウルバヌス2世は十字軍を組織し、トルコイスラム王朝へと遠征させました。複数回にわたる十字軍とイスラム教国との衝突は、ヨーロッパにイスラム文化のみならず、古代ギリシアやヘレニズム文化と接触する機会をもたらしました。 

 

 十字軍の遠征は、1100〜1200年代にかけて10回弱ほど行われています(下図)がそのほとんどが失敗に終わりました。

 

 

 

2)東方貿易による富の蓄積と自治都市の勃興 

 

  十字軍遠征などの結果、ヨーロッパは東方とパイプができ、貿易が始まりました。北イタリアは、ヨーロッパから東方への中継地として栄え、ヴェネツィア(Venice)やジェノヴァ(Genoa)といった北イタリアの港湾都市や毛織物を主産業とするフィレンツェ(Florence)などに富が集中するようになりました。特に東方と地理的結びつきの強いイタリアは東方の香辛料をヨーロッパに独占的に販売して巨万の富を得ていました。

 

  当時、ヨーロッパの兵士の多くは傭兵であったため、富は兵力に直結していました。そのため、これらの都市では商人が政治的な力を持つようになり、フィレンツェのような大きな自治権をもつ自治都市が形成されました。

 

  自治都市には、富を背景として強大な力を持つようになった一族が出現しました。このような一族にはフィレンツェのメディチ家、ミラノのヴィスコンティ家スフォルツァ家、フェッラーラのエステ家、マントヴァのゴンツァーガ家などがあります。これらの一族はルネサンス芸術の強力なパトロンとなりました。

 

 

 

3)オスマン帝国のビザンツ帝国(東ローマ帝国)への侵攻 

 

  13世紀末、ビザンツ帝国(東ローマ帝国:現ギリシア周辺)の東国境地帯(現在のトルコ周辺)にオスマン1世(下図)が率いる多民族の武装小国家が現れました。オスマンは急速に勢力を拡大し、1300年初めにはビザンツ帝国に侵攻し、バルカン半島の国々を脅かすようになりました。

 

 

 1389年、ムラト1世(下図)率いるオスマン帝国軍はバルカン半島諸国連合軍と戦い、圧勝。1396年には遠征してきた最後の十字軍をニコポリスで打ち破ります。1453年にはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国は滅亡してしまいます。

 

 

 ビザンツ帝国(東ローマ帝国)へのオスマン帝国の侵攻により、ギリシアにいた学者たちの多くが難民となりました。学者たちは文献を携えて裕福なイタリアへと渡り、貿易で富を得たパトロンに支えられながら語学学校を設立してローマやギリシアの古典文化をヨーロッパへ広めていきました。

 

  イタリアにはローマ時代の遺跡が多数存在します。そのような遺跡と新たに流入してきたギリシアやローマの古典文化は、イタリアの文化人たちを触発し、懐古主義的なムーブメントを引き起こしました。

 

 下図は1300〜1600年代までのオスマン帝国の領土を見たものです。1300〜1600年の300年間はちょうどルネサンスと重なります。この間に帝国の領土が急速に増えたことがわかります。

 

 

 

4)教皇の権力の衰退

 

 1096年に始まった第一回十字軍遠征の成功により教皇の権力はより一層強固なものになりました。しかしながら、その後の十字軍遠征はほとんどが失敗、さらに、叙任権闘争など皇帝と教皇の間で権力争いが激化し、次第に教皇の権力が衰退し始めました。

 

 1302年にはフランス国王フィリップ4世ローマ教皇ボニファティウス8世が対立、山間部の街アナーニに逃げ込んだ教皇をフランス軍が拿捕するアナーニ事件が勃発しました。教皇ボニファティウス8世はこの事件の3週間後に憤死してしまいます。この事件は皇帝の教皇に対する優位性を決定づけました。

 

 

 1309年、フランス王フィリップ4世は新教皇クレメンス5世に圧力をかけ、教皇庁をローマから南仏のアヴィニョンに移しました(アヴィニョン捕囚)。この移設により、フィリップ4世は自分の膝下で教皇を監視することができ、同時に教皇に対する皇帝の優位性を強くアピールできることになります。

 

 教皇庁がアビニョンに置かれた時代は70年ほど続き、7人のアヴィニョン教皇が誕生しました。1377年、最後のアヴィニョン教皇グレゴリウス11世はアヴィニョンからローマへ教皇庁を戻します。

 

 しかし、その結果ローマとアヴィニョンの両方に教皇が立つという異例の事態に陥ってしまい、教会は二つに分裂、その勢力はさらに衰えることとなりました。

 

 このような教皇の権威の衰退はキリスト教の影響力を低下させました。

 

  これら4つの説はどれが正しくてどれが間違っているという種類ものではありません。実際には4つとも正しく、これらの相乗効果によってイタリアでルネサンスが発生したのでしょう。

 

  4つを要約すると、教皇の権力低下に伴いキリスト教の影響が薄れ、その隙間を埋めるようにビザンツ帝国やオスマン帝国から流入してきた古代ギリシア・ローマの文化が浸透。さらに、貿易で富を築いた富裕層がその流れを支持し、文芸の強力なパトロンとなったことがルネサンスの勃興に繋がったのです。

 

 

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