今回は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(英:Titian、伊:Tiziano Vecellio、1488/90〜1576)の1回目、ティツィアーノの画家人生の初期とその代表作品です。
ティツィアーノは、盛期ルネサンスからマニエリスム期のイタリア・ヴェネツィア出身の画家です。「形態のミケランジェロ、色彩のティツィアーノ」と言われ、絵画だけで見れば、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロをも凌駕すると評されるほどの巨匠です。でも、彼の絵はちょっと退屈です。
ティツィアーノの正確な生年は明らかになっておらず、専門家の間では今も議論が続いています。彼は1576年に死亡していますが、その時の届出では103歳となっています。当時としてはとんでもない長生きですね。しかも死因が老衰ではなくペストですから大したものです。
彼は、1571年にスペイン王フィリッポ2世宛ての手紙の中で、「1474年生まれで95歳である」と主張していますが、どうも年齢を詐称していた可能性があるようで、最新の研究では1480〜85年生まれ説が最も有力なようです。それでも96歳ですからすごいことに変わりはありません。
長生きなのでティツィアーノの作品は大変たくさんあり、彼自身のものだけで400点以上、工房のものを入れると500〜600点あると言われています。
長生きのティツィアーノの生涯は通常4つの時期に分けられます。
- 初期 (〜1516年)〜36歳くらい
- 中期(1517〜1530年)37〜50歳くらい
- 後期(1530〜1550年)50〜70歳くらい
- 晩年(1550〜1576年)70〜96歳くらい
初期は、ティツィアーノの師であり、ヴェネツィア派の頂点であるベッリーニが死去するまでです。ベッリーニの工房に入り、兄弟子である天才ジョルジョーネの助手として、彼から多大な影響を受けた時期になります。
ジョルジョーネは1510年にペストで死亡し、ベッリーニも1516年に死去しました。その結果、ティツィアーノがヴェネツィア派のトップになります。
中期になるとティツィアーノは、ジョルジョーネの影響から脱却し、大規模で複雑な構成の作品を作るようになりました。
後期には、ジョルジョーネは、神聖ローマ帝国皇帝カール5世とその息子のスペイン王フェリペ2世の後援を受け、ドラマチックな作風へと変化します。
晩年にはフェリペ2世の元で過ごし、多くの肖像画を残しました。
初期(〜1516年)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(英:Titian、伊:Tiziano Vecellio、1488/90年頃〜1576年)は、イタリアのピエーヴェ・ディ・カドーレでグレゴリオ・ヴェチェッリオの長男として生まれました。下図はティツィアーノの生家です。
ティツィアーノの家は名家で、父親のグレゴリオ・ヴェチェッリオは、カドーレ城と鉱山の管理責任者、評議員、軍人など責任ある仕事についていました。一方、母親のルチアは、ティツィアーノが幼い頃に他界しています。
10〜12歳頃、ティツィアーノは弟のフランチェスコとともに、画家になるためにヴェネツィアに住む叔父アントニオに預けられました。
彼らは、はじめにモザイク作家のSebastiano Zuccatoのもとで基本を学び、その後Gentile Belliniに弟子入り、1507年、Gentile Belliniが亡くなるとジョバンニ・ベッリーニの元で修行しました。ベッリーニは当時のヴェネツィア派の頂点に君臨する画家でした。
・1503〜1506年頃、ティツィアーノは最初の作品「Jasopo Pesaro presentato a san Pietro da papa Alessandro(伊)」(下図)を描いています。
この作品はティツィアーノがジョバンニ・ベッリーニに弟子入りする前の作品です。もし、彼が1490年に生まれだとすると、13歳の時の作品です。一方、最新の生年である1480〜85年説を採用すれば、18〜23歳時の作品となります。
作品は極めて独特な色使いであり、構図、陰影、服などの表現も稚拙です。見た目は15〜18歳くらいの作品に見えます。
下図はティツィアーノの初期(1506〜8年)の神話画です。大してうまくありませんが、ティツィアーノはこの後ジョルジョーネによってその才能が開花し、急速に腕が上がって行きます。
「アドニスの誕生(伊:Nascita di Adone)」
「ポリドーロの寓話(伊:Selva di Polidoro)」
「オルフェウスとエウリュディケー(伊:Orfeo ed Euridice )」
・1507〜8年、ティツィアーノは、ジョバンニ・ベッリーニの工房で先輩であるジョルジョーネと出会いました。ジョルジョーネはこの3年後、33歳の若さで世を去りますが、この出会いでティツィアーノの才能が大きく開花します。
ティツィアーノはジョルジョーネの助手として、Fandaco dei Tedeschi(ドイツ商人館 下図)のフレスコ画を制作しています。残念ながらこのフレスコ画は現存しません。
ティツィアーノは、ジョルジョーネから多大なる影響を受けました。ジョルジョーネの助手をしていたティツィアーノは技術も向上し、ジョルジョーネに筆致も似てきたため、この頃の二人の作品を区別することは大変難しくなっています。
さらに、ティツィアーノが、ジョルジョーネの死後、彼の作品の仕上げをしたりしているので、二人の作品を区別することはほとんど不可能になっています。
下図の3作品はジョルジョーネもしくはティツィアーノの作であろうと考えられています。
・1507年の油彩画「合奏(伊:Concerto)」(下図1枚目)は記録上はジョルジョーネ作となっていますが、現在、一般にはティツィアーノの筆になるものではないかと考えられています。
・1508年制作の「サンロッコのキリスト(伊:Cristo portacroce)」(下図2枚目)も、初期にはジョルジョーネの作品であると考えられていましたが、現在はティツィアーノであろうと考えられています。
・1510年に制作した「田園の合奏(伊:Concerto campestre)」(下図3枚目)もジョルジョーネの作なのかティツィアーノの作なのか、現在も議論が続いている作品です。
でも、この作品はジョルジョーネっぽいですね。風景の中に人々が溶け込んでいるこの作品の特徴は、ジョルジョーネのものです。
ティツィアーノは肖像画でもジョルジョーネの影響を受けました。下図の1〜2枚目の作品(「アリオストの肖像(伊:Ritratto di Ariosto)」、「ラ・シャヴォーナ(伊:La Schiavona)」)は「T V」とサインがあるためティツィアーノの作品であると考えられています。
一方、意見が分かれているのが下図3枚目の「本を持つ男性の肖像(伊:Gentiluomo con un libro)」です。こちらは「V V O」の文字があり、ティツィアーノのサインはありません。「V V O」はジョルジョーネのイニシャルでもないため、作者だけでなく、その意味も謎となっています。
下図3枚を見比べてください。どう見ても同一画家の作品です。研究者は「T V」がティツィアーノの頭文字だと考えていますが、「V V O」が頭文字ではない以上、「T V」も頭文字であるという根拠はありません。もしかしたら3作ともジョルジョーネの作品かもしれません。
・1510年、ジョルジョーネは、彼の傑作の一つ「眠れるヴィーナス(Dresden Venus)」(下図1枚目)を描きました。しかし、この年、彼は33歳という若さでペストにかかり夭折してしまいます。
ジョルジョーネ亡き後、この作品はティツィアーノが完成させ、のちの画家たちに多大な影響を与えました。
ティツィアーノ自身もジョルジョーネと同様の構図で、のちに「ウルビーノのヴィーナス」(下図2枚目)を描いていますが、構図と美しさ、神秘性と詩情感などどれを取っても師には及びませんでした。
・1510年、「ジプシーの聖母(Gypsy Madonna)」(下図1枚目)を制作しています。こちらは師匠のジョヴァンニ・ベッリーニの聖母(下図2枚目)と同じ構図になっています。
ジョルジョーネの死後、ティツィアーノは独自に作品を制作するようになりました。
・1510年、IsolaのSanto Spirito教会のために「聖マルコ」を制作しました。聖マルコの左には二人の医師が、右には聖セバスティアヌスと聖ロクスがいます。
この作品は、ペストの大流行で疲弊していた市民を勇気付けるためのものででした。しかしながら、ペストの猛威は止まらず、ティツィアーノは翌年パドヴァへ避難しました。
・1511年、パドヴァのScuola del Santoのメインホールにパドヴァの守護聖人アントニオのエピソードを題材とした3点の大きなフレスコ画を描きました。
「A Child Testifying to Its Mother's Innocence」(下図1枚目)
「The Saint Healing the Young Man with a Broken Limb」(下図2枚目)
「Murder of a Young Woman by Her Husband」(下図3枚目)
・1512年、パドヴァに避難していたティツィアーノは、ペストの脅威がさったため、ヴェネツィアに戻り、S.サムエルのカナル・グランデに工房を構えました。
独立したティツィアーノは、巨匠ジョルジョーネの正統な後継者であると見なされ、多くの注文が舞い込みました。
・1511年「Noil me tangre」
・1512年「人間の3つの世代(Three Menes of Man)」
・1512年「バルビの聖会話(Sacra conversazione Balbi)」
「Noil me tangre」は、復活したイエスがマグダラのマリアに発した言葉で、「しがみつくな」くらいの意味です。「人間の3つの世代」は、前面に若者、右手に赤ん坊、そして、その奥にドクロを持つ老人が描かれています。
「Noil me tangre」(下図1枚目)を見て、何か気づきませんか?ヒントは背景です。このページにすでに出てきた絵と見比べて見てください。
・1512年「聖愛と俗愛(Amour Sacre Amour)」
・1513年「鏡の前の女」
・1514年「Portrait of Jacopo Sannazaro」
・1515年「フローラ」
・1515年「ヴァニティー(Vanity)」
・1515年「ヴィオランテ(Violante)」
・1515年「サロメ」
・1515年「男の肖像(Portrait of a Man)」
・1516年「さくらんぼの聖母(Madonna delle Ciliegie)」
・1516年「聖ジョルジョとドロテアを伴う聖母(Madonna tra i santi Giorgio e Dorotea)」
・1516年「Cristo della moneta」
・1516年、師のヴェッリーニがなくなると、ティツィアーノはヴェネチアの公式画家となり、名実ともにヴェネツィア派のトップになりました。